第三の理/第14話
曼陀羅の啓示

 また,忙しい日々が続いた. せっかく田沼君と中本君の活躍により, 移動すべき板の判定法が明らかになったのに, それをさらに深めてハノイ氏の問題の完全解決を 図る時間を捻出する余裕がなくなった. 彼らは彼らなりに追いかけている問題があり, できあがった部分を論文にするのに励んでいる. ゆっくりお茶をする時間でもあれば, そのときに,ハノイ氏の問題を議論することもできるのだが, 私が学部改革 関係の会議やら資料作りやらに追われていて, そうすることもできなかった.

 そして,明日は名古屋大学に出張である. 名古屋大学の浪川先生を中心とする日本数学会のワーキング・グループの活動の 中間報告会があるのである. そのワーキング・グループでは, 大学の基礎教育として行われている数学の授業を いかに改善すべきかを検討するために, その基礎資料を作るべく種々の調査活動を行っている. その中で,私は大学生の実態調査を実施する委員会の責任者にされてしまい, 大学内の仕事に加え,忙しさが倍加してしまった.

 しかし,そういう個人的な不満は別にすると, この活動は歓迎すべきものである. 簡単に言うと,数学者が教育を考える時代がやってきたのである. 以前には,教育を語る数学者は二流扱いされ, その結果,理学部数学科の数学が全国の大学に蔓延していた. しかし,数学者以外の目には高級な知的遊技としてしか映らないやり方が 多くの大学では空回りしていた. さらに,優秀な大学でさえ,学力の低下が叫ばれ, 同様の現象が起こり始めている.

 その原因はいろいろと挙げられるが, 少なからずこの現象に数学教育の危機を感じた一部の数学者たちが結集して, 大学における数学教育のあるべき姿を模索しようと 活動を開始したのだ. その 1 つの動きが浪川先生を中心とするワーキング・グループなのである.

 数学者は世間的には頭のよい人間というレッテルを貼られている. 一流の数学者が本当に頭がよいのなら, 教育を考えることくらい余裕でやって見せればよいではないか. それもできないのに, 数学に無関心な世間を高いところから見下して, 憂いているのなんて甘いと私は考えている. 自分なりの教育論も語れない数学者は, いくら論文がたくさん書けたとしても,二流扱いする. そういう世論作りができたら,世の中はもう少しよくなるだろう.

 いずれにせよ,現状では教育を考える数学者はほんの一部にすぎない. 確かに数学だけをやらせておけば, 天才的な能力を発揮する人たちもたくさんいるから, 数学者のすべてが独自に教育に関する深い見識を持てと言うのは 少々酷な話だろう. したがって,一部の有志たちが 数学者として持つべき教育観のスタンダードを 創り上げる仕事に従事する. それだけでも,以前に比べたら大きな進歩なのである.

 その有志の中に私自身が含まれていることを喜ぶべきなのか, 悔やむべきなのか,難しいところではあるが, 乗りかかった船だから,漕ぎ続けるしかないだろう.

 少なくとも当面の問題は明日の出張である. 新横浜から名古屋までの新幹線車中約 2 時間,往復 4 時間をどう過ごすべきか? ある意味で,このまとまった自由時間は私にとってたいへん喜ばしいことである.

 そこで,今朝思い立って,秋葉原の電気街に足を運ぶことにした. 軽量でバッテリー駆動時間の長いノート・パソコンを買おうと考えたのである. おまけに新幹線の座席も予約しておこう. 人目など気にするものか. 堂々とノート・パソコンの蓋を開け,キーボードを打ちまくってやるぞ! ハノイの塔の解法を解析するプログラムを作って, ハノイ氏の問題に決着をつけるのだ!

 とはいうものの, たまの日曜日なので,昼過ぎからの活動開始になってしまった. 結局,秋葉原の駅に着いたのは午後の 2 時を過ぎていた.

 私の秋葉原散策のコースに従って, 最初は“ラジオ館”と呼ばれるビルの 6 階にある NEC のショールームに足を運ぶ. 私もいわゆる 98 ファンであったが, Windows95が登場してから, 世の中の風が変わってしまった. 98 にすべきか DOS/V にすべきか,悩むところである.

 一通りラジオ館を物色して,およその価格の相場を見定めたところで, 歩行者天国になっている大きな道路を渡って, 石丸電気のパソコン館がある通りへと向かった. すると,九十九電気のある路地の方から,何やら踊るような声が聞こえる. その声の正体を突き止めようと,その路地に入っていくと, そこには坊主刈りで少し大柄な青年が, 体をくねらせながら,大きな声を上げてビラを配っていた.

 私はもしかしてと思って,彼に近づいていった. ひょっとすると,例の新興宗教団体が経営するというパソコン・ショップの 宣伝をしているのではないだろうか? 話には聞いていたが,それを目撃するのは初めてだ.

 確かに彼の声は大きく, リズミカルでどこかの民族舞踊を思わせるような動きだった. そのため,多くの人たちの目を引き, 観衆にただ者ではないという印象を与えている. 踊るように通行人にビラを手渡す腕の動き. 坊主頭に,濃い眉毛. そして,その下で不気味な輝きを見せる 2 つの目. 確かに異様な雰囲気だ.

 しかし,彼の服装はそれほどおかしなものではなかった. 普通の若者たちと同様に,ティーシャツにジーパンというスタイルだった. よっぽどビラをもらっている眼鏡にワイシャツ,ショルダーバックという オタク連中の方が異様である. でも,場所が場所なので,ここではオタク達の方が多数派である. そして,かくいう私もそのオタクの一員としてそこに存在していた.

 私も謎のパソコン・ショップの情報を仕入れるために 彼が配っているビラをもらおうと, 彼に近づいていった. そして,それまではっきりとは認識できなかった 彼のティーシャツの模様に目が行った.

曼陀羅だ!」

 正確には再現できないが, その曼陀羅は赤茶けた色で白いティーシャツにプリントされていた. 全体は大きな正方形で,その中に大きな内接円が描かれていて, その円の中に,同じ大きさの 5 個の円が十字架状に接するように配置されている. さらにその円の中にも,同様の配置がある. そこに並んでいたものは, 小さな仏像だったうような気がする.

 私はその曼陀羅に見入ってしまった. その曼陀羅の入れ子になった構造が私に何かを啓示しているように思えたのだ. 確かに,その曼陀羅を見た瞬間に私の無意識の世界の何かが動いたのである. そして,その何かをつかむために, ビラを配る彼のところにさらに近づいた.

「あ,あ,あの,ビラください.」

 本当にほしかったものはその曼陀羅の絵だったのだが, さすがにそれをくれとは言えなかった. しかたなく,彼に接近しすぎた私はこう言ってしまったのである. 彼の方も,自らビラをもらいにくる通行人は珍しかったのか, それまで続けていた動きを止め, 無言で私にビラを渡した.

 しかし,今の私にはそんなビラはどうでもよい. ほしいものは曼陀羅である. とはいえ,自らくれと言ったものが手に入った以上, そこに止まるわけにもいかず, 彼の元を後にした. 彼ももはや私とは無関係に,ゼンマイを巻き戻した人形のように, 再び例の踊りを始めた.

 曼陀羅. それは仏教における神様の相関関係を視覚化したものだという. その御利益なのかどうかは怪しいが, 私はそれを見て何かの啓示を受けた. その何かを明らかにするためには, やはりその曼陀羅の詳細を見る必要があるのだろうか? もしそうなら,どこで曼陀羅の絵を手に入れたらよいのだろうか?

「そうだ.本屋に行こう!」

 いわゆる神田の本屋街は秋葉原の電気街から歩いて 30 分くらいのところにある. そこに行けば,世間に出まわってる大方の本が手に入るはずだ. その中にはきっと曼陀羅の絵が載っている本だってあるにちがいない. そう思い立ち,私は電気街を早々に立ち去った. もはやノート・パソコンなどどうでもよくなっていた.

 石丸電気のパソコン館の前を通り過ぎ, 昌平橋を渡って,JRの線路のガードをくぐり, 右折して線路沿いに坂を上がれば,御茶の水駅の東口に至る. さらに,丸善の前を通って西口に向かい, なだらかな坂をしばらく下っていけば, そこが神田の本屋街である.

 私にとってこのコースはお決まりのものなので, 足に任せて歩いていける. 実際,そのときも,私の目は周囲の光景など見てはいなかった. 空の遥か彼方を見ているようでもあり, 顔の前方 1 m程度の空中を見ているようでもあった. 足は普通に歩いているのに, 私の意識は自分の世界に閉じ込もって, 外界との干渉を断っていた. そういう状態の私は,どんな表情をしているのだろうか?

 そんな不安もあるにはあるが, この状態は私にとってそれほど不思議なものではない. 何か新しい定理が完成する瞬間はいつもこれに似ている. 証明すべき定理が定まってしまえば, 何かを計算したり,論理的に演繹したりと, 紙と鉛筆を使って,いわば作業のようなものに時間を費やせばよい. しかし,そもそも何を証明すべきなのかを模索する段階では, 紙や鉛筆はもとより, 「私は数学者だ」 と自負しているその意識すら, まったくの無力である. ただ無意識の世界からその何かが浮上してくるのを待つだけである. その時が来るのをじっと待つのである….

 でも,ただじっとしているのもなんだから, 私は歩くのである. 市営地下鉄の三ツ沢上町から大学までの約 1 キロの行程を歩く. 多少肥やし臭い空気に耐えながら,そのキャベツ畑の道を歩く. たまには何かを独りで呟いていることもあるようだ.

 足だけが外界のリズムに合わせて動いているが, 私の意識は何か別のものに同化することを求めて, さまよい歩く. どの扉を開くべきなのか? そもそもその扉はどこにあるのか? そういう疑問が一通り意識を通り過ぎた後に, やっと何でもない自分に到達し, その求めるものに同化する.

 もちろん, 地下鉄の駅から大学までの 20 分間にその同化が毎回起こるわけではない. おそらく毎日毎日の繰り返しが私の無意識の世界を耕し, 同化すべきものを育ててくれているのだろう. そして,ある瞬間,闇の中から扉が現れ,私はその扉のノブをそっと回すのである.

 さて,今回はいつもとは多少事情が違うようだ. 歩いて同化すべきものを探すという点では同じだが, 曼陀羅の啓示を受けた後, すでに何かの存在を感じていた. その何かは私の意識の後ろの方にある. 実際,後頭部から延髄に至る部分にその何かが乗っている感じがする. 物理的に何かが乗っているのなら, 振り向いてそれを見ることもできるだろう. しかし,振り向いても見えない何かがそこにあることを意識するのは歯がゆい.

 その歯がゆさを解消するために, 曼陀羅に継ぐ何かがほしい. その何かによる刺激を期待して,私は神田の本屋街に向かっているのだった. 早足なら 30 分の行程をだらだらと 1 時間近く掛けて歩いているうちに, 本当の私は曼陀羅の絵などどうでもよくなっていた. しかし,外界のリズムに合わせて足を進めている私の意識は, 「曼陀羅の絵を探せ」 という誰かから受け取った指令を実行すべく, 本屋街に向かうのだった. そして,真っ先に目に入ったのは三省堂書店の大きなビルだった.

 横断歩道を渡って三省堂書店に入ると, 文房具関係のバーゲンのようなものをやっていて, 人がごった返している. それでなくても新刊本や雑誌が並んでいる 1 階は人が多い. 私に与えられたミッションは曼陀羅の絵を探すことだから, この階には用はない. 入り口を入ってすぐ右手の壁にあった案内板によれば, 宗教関係は 4 階となっている. エスカレーターに乗って上に行こう.

 降り口の天井から吊るされている看板を確認しながら エスカレータを 3 つ乗り継ぐと, 次の看板が現れた.



 宗教関係の文字はないが, この階のはずだ. しかし, そこは私が初めて足を踏み入れる領域である. ちょうど初めての本屋さんに行ったときと同じように, まったく鼻が利かない. ほしい本はいったいどこにあるのか? そもそもどうやってそれを探せばよいのか? まるで見当がつかず, 貧弱な人工知能しか持たないロボットが壁にぶつかるたびに ランダムに右折,左折を繰り返すように, 私は書棚の間をさまよった.

 いっこうに埒が開かないので, このミッションはここで中止することにした. そして,せっかく来たのだからと, 5 階の理工系図書のコーナーに足を運ぶことにした.

 そこは数年前とはがらっと雰囲気が変わっていた. 以前と違って,コンピュータ関係の本が大量に増え, そのフロアーの大きな部分を占めるようになっていたからだ. その中でも,インターネットや Java 言語の本が目立つ. その他にも,ワープロや表計算ソフトなどの解説本, パソコン雑誌が目白押しである.

 そういう本に囲まれて, カオス,フラクタルや複雑系 の書籍が並べられているコーナーがあった. その周辺に数学のコーナーがあるのかとうろついてみたが, それはどこか別の場所に移動してしまったようだ. いずれにせよ,数学に関連した書籍のコーナーが特設されていることは, 数学を志す者としてたいへん喜ばしいことである. しかし,そのコーナーもコンピュータ関係の書籍の力に寄生して存在していることは 否定できないだろう.

 とはいえ,カオスやフラクタル関係の本には たくさんおもしろい絵が載っているから, 誰でも一度は手に取ってみたくなるだろう. そういう私も 『フラクタルの美』 (シュプリンガー・フェアラーク東京) という分厚い本を手に取り, パラパラとページをめくった. そこにはお馴染みのマンデルブロー集合や 植物の成長を思わせるフラクタル図形が並んでいる. 中には曼陀羅を連想させる無数の円からなる図もあれば, ある規則に従って描かれた白と黒の領域が交互に連なった複雑な形の図も載っていた.

 そういう不思議な絵に刺激されて, 私は知性を失ったロボットの状態を脱し, 1 つの意識に戻ることができた. 「曼陀羅を探せ」 という司令はここで完全に消滅したのである. 曼陀羅に見た再帰的構造,ある意味で再帰的ともいえる自己相似なフラクタル図形. その共通項をキーワードに, 私の中のビジュアルなデータ・ベースの検索が始まる. そして,検索のポインターは私の頭の中に格納されている ある画像データを指して停止した.


図4. 上半平面内のイデアル三角形


 それは,上半平面を埋め尽くすように描かれた イデアル三角形 の図だった. 専門的な用語の意味はともかく,図4 のような図形である. 水平に引かれた 1 本の直線の上の領域に無数の半円が描かれている. 大きな半円の中には,半径がその半分の半円が 2 つ接するように描かれている. その半円の中には同様に半分の大きさの半円が 2 つ, その半円にもさらに 2 つと, 半円たちが無限に入れ子になっているのである.

 その絵に到達した途端, 私の意識の後ろに存在していた“何か”が移動を始めた. そして,私の意識を透過して,私の前方に現れた.

「これだ!」

 それは私が開くべき扉だった. あとはそのノブを回し,手前に引くだけでよい. もちろん,その扉を開けただけで,すべてが解決するわけではない. それは十分に承知している. その扉の向こうには階段があり,それを登らなくてはならないのだ. しかし,もはや,すべてが私の前方の世界に存在している. 何も悩むことはない. ただその階段を登っていけばよいのだ!

 すべての準備が整った. もはやその場に止まる必要はない. 私に必要なものは,紙と鉛筆,そして,外界のリズムとの隔離である.


つづく

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negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/11/4]