第三の理/第1話
謎の電子メール

 事の始まりは一通の電子メール だった.

 その日も,大学の研究室に着いた私は, いつものように,ソファーの上に鞄を下ろすと, すぐにコンピュータ室に赴き, 電子メールのチェックをする. ワークステーションと向き合い, ログイン名を打ち込み,パスワードを手早く入力すると, 微かなハードディスクの音と ネットワークのアクセスを示す赤いパイロット・ランプの点滅. やっとのことでいくつかのウインドウを携えた画面が ディスプレーに現れる. その片隅には,アメリカ映画でお馴染みの蒲鉾形の郵便箱のアイコンがあり, ピッという音とともに,フラグを上げた. これが電子メール着信の印である.

 電子メール開通の当初は,誰かからメールが来るのが楽しみだったが, ここまで電子メールが普及してしまうと,うっとうしいことも多くなる. 海外の数学者から 私の研究に対する問い合わせなどがやってきたときには実に嬉しいが, その日も大半のメールは私に面倒な仕事を押し付けるようなものばかりだった. しかし,その中に1通だけ,趣向の違った妙な電子メールが混じっていたのである.

 その発信人は,私と同じグラフ理論 を研究している S 氏だったが, 彼の名誉のために,実名を記すのは控えておく. しかし,このような遊び心に富んだことが大好きな人だと言えば, その道の人なら誰のことなのか,察しがつくはずである.

 そのメールには“hanoi”という題名が付けられており, その文面は以下のとおりである.

Hanoi Tower fell down!
Send this message
to two other mathematicians.

念のため,訳を記しておくと,

ハノイの塔が崩壊した!
このメッセージを
他の 2 人の数学者に送れ.

 はたして「ハノイの塔が崩壊した」とは何を意味しているのかわからないが, これは私が子供の頃に一時的に流行した“不幸の手紙”の類だなと, 私は直感した. その不幸の手紙というのは, それをもらった人はそれと同じ文面の手紙を 3 人の人に送らないと, 不幸になるというものだった. それとは逆に,幸福の手紙というのもあった. 友達の輪が広がり,幸せになるというものだったと記憶している.

 いずれにせよ,私が私の知り合いの数学者 2 名にこのメールを転送し, それをもらった 2 人もその指示に従えば, いわゆる“ネズミ講”式に このメッセージをもらった人が増加していくことになる. 最初にこのいたずらを始めた人間が 2 人に送り, その 2 人がそれぞれ 2 人に送る. さらに, 2 × 2 = 4 人が 2 人に送れば….

 厳密に言えば,すでにこのゲームに参加した人が また誰かから同じメールをもらってしまうこともあるが, そういうことは起こらなかったと仮定しよう. そう考えれば, このメッセージを手にした者の数は次のように増えていく.

1 + 2 + 22 + 23 + 24 + …

これはいわゆる等比級数 だから, 第 n 項までの総和は次のようになる.

1 + 2 + 22 + … + 2n-1 = 2n - 1

 こんな公式は知らないという人のために, 簡単に説明しておこう. 補助的に左辺に 1 を加えて,初めの何項かを足していくと, 次のようになる.

1 + 1 + 2 + 22 + 23 + 24 + …
 = 2 + 2 + 22 + 23 + 24 + …
 = 22 + 22 + 23 + 24 + …
 = 2 × 22 + 23 + 24 + …
 = 23 + 23 + 24 + …

要するに,いつも初めの 2 項は同じ形をしていて, それをまとめるとその次の項と同じになっている. この構造が繰り返されて,最後の 2n-1 まで足し終わった時点で 2n になっているのである. ただし,初めに補助的に 1 を足しておいたので, それを引いて, 2n - 1 を得る.

 いずれにせよ, 2n - 1 と毎回言うのも面倒だから, 1 人分だけさばをよんで, その数を 2n と言ってしまうことにする. つまり,この謎のメッセージが n 人の人の手を経て 私のところまで届いたのだとすると, すでに私も含めて 2n 人の数学者がこのメッセージをもらったことになる.

 例えば, 10 人の手を経ているのなら,その数は 210 = 1024 である. 約千人と思えばさほどの数ではないが, 100 人の手を経ているとすると,とんでもないことになるのだ.

 ちなみに, 2100 の値はなんと 31 桁の数である.

2100 = 1,267,650,600,228,229,401,496,703,205,376

この数がどれほどの数なのかは想像を絶する. それは全世界の数学者の数どころか, 全宇宙に存在する星の数よりも多いのである. その 2100 の驚異については, 拙著『爽快! 2100 三話』(遊星社) の中でじっくりと解説してあるので, それを参照していただこう.

 したがって, いたずらの張本人からこのメッセージが私に届くまでに, さほど多くの人間の手を経ていないことになるだろう. 数学者 をどう定義すべきかという問題は残るが, 現在の日本数学会 の会員が 1 万人足らずだから, 私もこのいたずらに荷担してメッセージの転送を続ければ, 日本中の数学者全員にメッセージが行き渡るのも, そう遠い日ではない.

 結局,私の下した結論は, この愉快犯の企みに終止符を打つことだった. ハノイの塔が崩壊した. このメッセージがどれほどに重要なものなのか? 後に説明するが,ハノイの塔といえば,単なるパズルのことである. 日本語で「崩壊した」と書いてしまうと,大げさな感じがするが, 玩具の塔が壊れたからといって,何だというのだ. 英語圏の人間にとっては,ちょっとした洒落のきいた台詞なのかもしれないが, 日本人のセンスではニヤリとすることもできないではないか.

 私もそうだったように,電子メール開通当初なら, こんなメールをもらっても嬉しいだろう. しかし, 電子メールが事務連絡の道具に使われだし, しぶしぶワークステーションやパソコンの前に座るのが日課とされている人にとって, いらいらの種が 1 つ増えるようなことは止めることにしたのである.

 それにしても, このいたずらの張本人はどういう意図で「ハノイの塔が崩壊した」という メッセージを世界に向けて発信したのだろうか? それに何か大きな意図があるのだとしたら, 私がこのゲームを中断したことはどういう意味を持つのだろうか? いずれにせよ, その愉快犯にとって,彼がメッセージを発信した後に それが私の手元に届くか否かは計り知れないことのはずである.

 しかし,私がこのゲームを中断しようとも, 私が「ハノイの塔が崩壊した」というメッセージを 受け取ったという事実は残るのである. それが後に,大きな問題に発展しようとは,そのときには思いもしなかった.


 後に S 氏に聞いたところによると, 彼のところにこのメッセージを送ってきたのは, カナダに住む彼の知り合いからだったそうである. 私はそのカナダ人のことはよく知らないが, S 氏同様に,スタートトレックやテーブルトーク RPG の大ファンで, 今回のメール騒動のようないたずらっぽいことなら進んで参加する奴だと S 氏が言っていた.

 さらに,S 氏はこのメッセージを 私以外にニュージランドの知人に送ったと言う. ということは, 日本国内で「ハノイの塔が崩壊した」のメッセージをもらった人は, S 氏と私しかいない可能性もある. いずれにせよ,その数はかなり少ないだろう.


つづく

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negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/5/1]