第三の理/第11話
虚しい優等生

 その翌日,珍しく予想以上に早く会議が終わり研究室に戻ってみると, すでに菅野さんが来ていて,中本君と話をしていた. 昨晩,彼女から自宅に電話があり,今日会うことになったのだ.

「久しぶり.」

 菅野さんは中高一貫教育の女子校で数学の先生をしている. 私よりも 2 つ年上の女性で, 私とは大学院生時代以来のつき合いである. 彼女は津田塾女子大学の博士課程を満期退学した後に, 某女子校に就職し,教員の道を歩むことになった. のん気に大学生の相手をしている私と違って, 中学生や高校生の指導に追われる忙しい身では, 自分の時間を作ることはさぞかし難しいだろう. それにもかかわらず,菅野さんは今でも好きな数学の研究を続け, 時折,自分で考えたことを聞いてほしいと私の研究室を訪れるのだった.

「早かったじゃない.」

「うん.今日は,いつも会議を長くする先生が欠席したんでね….」

「忙しいところ,ごめんね.」

「気にすることはないよ.数学の話をするのが,私のストレス発散なんだから.」

 私と菅野さんとの間の挨拶的な会話が一通り終わったところで, 中本君が口を開いた. 早く何かを言いたくてしかたがないという様子だった. 当然,私たちが昨日発見したハノイの塔の法則のことにちがいない.

「先生.できました.」

「昨日の証明かい?」

「はい.今,菅野さんにそれを聞いてもらっていたところです.」

「なかなかおもしろい問題じゃない.」

 その証明方法はいわゆる数学的帰納法 を使うというものだった. 中本君の告白によると, 当初は手数に関する帰納法で証明しようとしたが, うまくいかなかったのだそうだ. そこで, 昨日の実験のときと同じように, まず, 手数がちょうど 2n-1 の形をしているときに 板 n が動くことを示そうとした. それに成功して, 自分のやり方を反省してみると, それと同じ方法で一般の場合も証明できることに気づいたという.

 中本君がその証明 を言い終わると, 菅野さんがおもしろいことを言いだした.

「この法則って,ハノイの塔みたいよね.」

「え?~ そりゃあ,ハノイの塔の法則なんだから….」

「そうじゃなくて,ほら. ハノイの塔って,一番上の板しか動かせないでしょ. 中本君が言っている法則だって,そうじゃない. 2 進法を小さい桁を上にして縦に書けば, 一番上にある 1 が動く板に対応しているんでしょう.」

「なるほどー!」

 中本君は菅野さんのその言葉にいたく感動したようだった.

「確かにそうですね….」

 この対応を偶然の一致として笑い飛ばすのか, 何かの原理に基づく必然の一致と解釈して,その原理を模索するのか. もちろん,前者の場合は何も生まれない. 菅野さんのお得意のギャグとして楽しく笑って終わりである. しかし,中本君の中では明らかに後者が選択されていた.

「でも,ハノイの塔には棒が 3 本あるのに, この棒は 1 つだけだからなぁ….」

 私もこの菅野さんの指摘が気に掛かり,しばらく黙り込んだ. それを見て菅野さんは,

「私,何かいいこと言っちゃったのかしら?」

 と言った.

「まあね.でも,見えてこないなぁ.」

「そうですね.」

 私も中本君も,この必然の一致を示す手掛かりがなかなか発見できない. もちろん,この一致は中本君によってすでに証明されている事実である. しかし,私たちの美意識はそれでは納得しない. これほどの“一致”を見せつけられていて, 「要するにこういうことなのだ」 と言えないのが悔しいのである.

 そもそも,数学における証明は与えられた命題が正しいことを 示すための手続きにすぎず, 必ずしも人を納得させるための方法ではない. 「論理的に証明できたのだから正しいのだ. それがどうして納得できないのだ」 と 学生たちのできの悪さを嘆いている数学の先生も多いが, そういう先生たちは,私がここで言っていることの意味がわかるのだろうか?~

 少なくとも私は, その現象を生み出す原理や構造を指摘して, 「だからこうなるのだ」 というスタイルの証明を最もよしとする. 反対に,機械的な証明は論理的に正しくても,よしとはしない. それは無目的に計算をしていて,たまたま答えが出たようなものだから, 人の納得には程遠いのである.

 菅野さんも私たちのこういう態度をよく理解していて, 私と中本君が無言で自分の世界に入り込んでいるのを 満足そうに眺めていた.

「やったー.私はなかなかいい指摘をしたみたいね.」

「そりゃそうなのだけれど,見えてこない.」

「悔しいですね,先生」

「悔しいね.」

 どうやらこのままでは何も始まらないと感じて, 菅野さんが新たな話題を提供した.

「実はねぇ,昨日,すごくおもしろいことがあったの.」

 私も中本君も必然の一致の原理を探し求めることを断念して, 彼女の話を聞いた.

「昨日,授業で三角関数の話をしていたんだけど, あるとき,急にある子が大きな声で『あっ!』て叫んだのよ. みんなびっくりして,私もその子にどうしたのか聞いたんだけど, そのときには別に何でもないと言っていたわ. でも,後になってからその子が職員室にやってきて, さっきの悲鳴の謎を告白してくれたの.」

「えー.いったい,何を告白したんですか?」

「実はね,その子は sin π/2 = 1 だとか sin π/3 = √3/2 というのを 全部暗記していたって言うの.」

「今時,そんな子は珍しくないよ. いくらだっているだろう.」

「それはそうなんだけど,その子が言うには, 自分はそういう公式を丸暗記していたって言うのよ. sin π/2 = 1 をそのまんま,意味を考えずにね.」

「え?」

「だから,例えば, π は 180°と言えるのに, π/2 が 180°の半分だというのを理解していなかったと言うのよ. sin π/2 で 1 つのものと思っていて, その式が角度とその正弦という構造をしているなんて考えていなかったんだって.」

「ほー.」

「それが昨日の授業を聞いていて, π/2 って, π の半分のことだったんだと気づいたと言うの. そう気づいた瞬間,思わず大きな声を出してしまったんですって.」

「ばっかですねー.」

「ううん.それがどうしてどうして. その子は数学のテストはほとんど満点なのよ.」

「公式は完璧に暗記しているから?」

「そういうことよね.逆に言うと, 公式の意味なんかわからなくても, 丸暗記しておけば満点がとれる問題しか私には作れないということになるわ.」

「それは菅野さんのせいじゃないよ. 確かに,高校数学の内容で, 本当にできる子と暗記しているだけの子を識別する問題を作るのは 難しいと思うよ.」

 要するに,その生徒にとって, 三角関数の公式は無意味に並べられた文字列でしかなかったのである. 無意味と言えども,それを暗記していればテストでよい点がとれるから, せっせと覚えていた. ところが, 授業中の菅野さんの言葉が引き金を引いたのか, 彼女の中で何かが熟したのかはわからないが, 「あっ!」 と叫んだ瞬間に,無意味な文字列が意味のある言葉に姿を変えたのだ. よしよし. これでこの子はもう大丈夫.

 そういえば, 以前私が担当した推薦入試の面接の際にもおもしろい女子受験生がいた. その受験生はすらっとしていて,美人系の顔立ちだった. そのとき, 3 人いた面接官のうちの 1 人が 「高校の数学の中では何が一番好きですか」 というお決まりの質問をした. その答えが何だったかは忘れてしまったが, それに続けて私が「では,嫌いなのは何ですか」 と 尋ねたときのことはよく覚えている.

 彼女は私の問いに対して「積分が嫌いです」 と答えた. 積分の中でも回転体の体積を求める積分が嫌いだと言う. そこで,なぜ嫌いなのかと聞くと, どうしてあのやり方で回転体の体積が求められるのかがわからないからだと言う. もちろん,誰でもわからないものは簡単には好きになれない. だから,彼女の答えは非常に素直に聞こえる. しかし,学校から推薦を受けて受験してくるくらいの生徒だから, 数学の成績が悪いわけがない….

 この不可解な状況の謎を解くためにさらに言葉を促すと, 彼女は回転体の体積を公式 どおりに求めることなど自分にとっては簡単だが, なぜそれでよいのかがわからないままに答えが出てしまうのが嫌なのだと言った. 私はこの言葉にいたく感激をした. 自分の行為に意味が伴っていないこと, それにもかかわらず行為の結果がよく評価されてしまうこと. そこに不快感を覚えるなんて,なんて優れた感性の持ち主なのだろうと 私は思ったのである.

 しかし,残念なことに,彼女はその推薦入試には合格しなかった. というのも,他の面接官の先生たちに, 回転体の求積の原理がわからない生徒という印象を持たれてしまったからだ. 私は彼女の優れたメタ認知能力 とそういう感性こそが本当の数学をするために必要なのだということを力説したが, 流れを変えることはできなかった. 美人だから強く押すのだろうと冗談半分に言われてみたりと, あまり強硬な態度をとると私の公平さが疑われる. いずれにせよ, 決定された合格候補者の中に不満の残る生徒がいたわけではないから, その決定を支持せざるをえない….

 菅野さんの生徒にしろ,推薦入試で出会った生徒にしろ, 世の中には彼女たちのような虚しい優等生がたくさんいるにちがいない. さらにテストでよい点をとれない者も含めれば, 数学に虚しさを感じている生徒たちは 8 割を越えるだろう. そして,数学が嫌いになっていき, 「数学は何の役に立つんだ」 と悲鳴を上げている.

 その一方で,少数派ではあるが, 私や中本君,そして菅野さんのように, 数学を何よりの楽しみにして生きている人たちもいる. 丸暗記の計算数学しか知らない人たちには, そんな人間はかなり奇異に映るにちがいない. そういう私とて,高校生の頃は公式運用術的な数学が嫌いではなかった. しかし,その段階を卒業すると, 情緒的なレベルで数学が語れるようになってくる. 専門的な論文を書く一方で, 研究仲間や学生たちと酒を酌み交わしながら そういう話をするのが私は好きだ.

 ともかく,菅野さんの話を聞くというセミナーを開始した. 彼女は中本君が研究している 「閉曲面上の四角形分割の対角変形」 の問題に触発されて, 射影平面上の 4 -正則グラフ を変形・生成という観点から分類しようと していたのだった. それがいったい何なのかは,この際どうでもよいだろう.

 そのセミナーはもともと始めたのが遅かったこともあって, 夜の 8 時過ぎまで続いた. 一通り菅野さんの話を聞き, 専門家としてのアドバイスを与え, さらに発展して考えるべき問題などを議論して, そろそろ終わりにしようと私が提案したところに, あの田沼君が顔を出した. 右手には紺色の缶コーヒーを握り, 左手にはコンビニの袋を下げている.

「ずいぶん,遅い登場だな.」

 と私が言うと, 田沼君はコンビニの袋から クッキーとチョコレートを取り出した.

「はい.これどうぞ.」

 しかし,今更もう遅いと言わんばかりのみんなの視線に 彼は恐れおののくポーズをとった. それに追い討ちを掛けるように,中本君が言った.

「田沼の法則,証明したか?」

「うー.」

 田沼君はさらに一歩後退した.


つづく

目次へ

negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/11/4]