第三の理/第3話
クラッシュ!

 再び,数日が過ぎた. そして,私がこの大学に着任して以来,最も不幸な日が始まった. とにかく,よく物が壊れる日だった.

 朝,研究室に到着し, いつものようにコンピュータ室に行ってみると, すでに大学院生の守屋君がワークステーションに向かっていた.

  「あ,はじめちゃんだ.」

 学生と顔を合わせたときに, 挨拶の代わりにその学生の名前を呼ぶのが私の習慣だった. (もちろん,「はじめちゃん」というのは守屋君の ニックネームである.) 礼儀正しい人たちには奇異に映るだろうが, 学生の名前を呼んであげることが, 学生とのコミュニケーションのもっとも基本だと 私は考えている.

 最近では,その習慣が私の研究室に所属する学生の間にも広まって, 私を見ると「あ,先生だ」と挨拶する者もいる. そんな挨拶をされたら怒り出す先生もいるだろうが, 私はそれがけっこう気に入っている. そのお気に入りの返答が彼から返ってくるものと予期していると, 今朝はいつもと様子が違う.

 しかたなく,こちらから続けて声を掛けた.

  「どうしたの? なんか変だね.」

  「はい.大変なことをしちゃったんです.」

 そう答えた守屋君の表情には,重苦しい雰囲気が漂っていた. 何かを打ち明けるべく,言葉を探している様子である.

  「何をしちゃったんだい?」

  「あ,あのー.昨日,OS のバージョン・アップ用の CD-ROM が届きましたよね.」

  「うん.それで?」

  「で,先生が帰った後で,そのインストールにチャレンジしたんです.」

  「ほう.それはありがたい. そもそも,ここのシステムの管理は実質的には君がやってくれているんだから, 君の判断でどんどんやっちゃって構わないよ. それに OS が新しくなるなら,みんなだって喜ぶし. それで,OS のバージョン・アップは成功したの?」

  「はい,それは成功しました.」

  「それはよかった.どうもありがとう.本当に君がいてくれるおかげで, 助かるよ.今夜は夕食おごりだな….」

 彼を励ますように言葉を掛けてみたものの, 彼の表情はいっこうに明るくならない. 伏せ目がちで,まだ何かを隠している様子だ.

  「実は….」

 私は何か非常に重要な告白が始まりそうな気配に身構えた.

  「OS をインストールするドライブを間違えて, ユーザ領域にフォーマットを掛けちゃったんです. つまり,ユーザの 4 ギガバイトのデータが 全部パーになってしまったんです….」

 いったん堰を切った水はどんどん流れ出す. 守屋君の口からは,その状況説明の言葉が立て続けに飛び出してくるが, 私の頭の中は 「クラーッシュ!」 と無言の絶叫をしたまま固まっていた.

  「それで,どうしたらいいのか聞こうと思って,先生を待っていたんです.」

 そう言われてしまって,救われるべきは彼であり, 私は救うべき側の人間であるという構図が確定してしまった. 私自身の硬直した頭を元に戻してくれる役を演じてくれる者はここにはいない. 指導教官として,ここは毅然とせざるをえまい.

  「ということは,夕べは徹夜してしまったってわけか.」

  「はい.」

  「それはご苦労さんでした.研究室に戻って,コーヒーでも飲もうか?」

  「はい.」

 研究室に戻ってコーヒーを飲んだところで, 何の事態の解決にもなっていない. そんなことはどちらもわかっている. そして,見つめ合う目と目が相手の理解を確認した. いずれにせよ,指揮権が私に移管された形になり, 守屋君は救われた気分になったはずだと思いたい. とにかく,コーヒーでも飲んで, 頭を冷やしてから対策を練ればよいではないか….

 解決にならないとわかっていながらも話し続ける私と, 解決に向かっているのだ信じ込もうとしている守屋君とが 肩を並べて研究室に通じる廊下を歩いていると, 私の研究室の中から大きな声が飛び出してきた.

  「クラーッシュ!」

 私の頭の中の無音のクラッシュと違って, その声は陽気な感じである. それは学部生の渡辺君の声にちがいない. いったい何がクラッシュしたのか? それが判明すると,事態がさらに悪化するような気配を感じて, しばし足を止めた. 守屋君も今のクラッシュに触発されて,頭の中で何かが動いた様子だった.

  「そうだ,先生.この前に試しにやってみた磁気テープがありますよねぇ.」

  「そうだ,そうだ.」

  「あの中に,少し古いけれど,ユーザ領域のデータがバックアップされていますよ.」

  「おー.そうだ.それはよいことに気がついた. それをインストールしなおせば,かなりの部分が修復できることになるね.」

 といいながら,私は自分が言ったフレーズの中の「修復」 という単語に反応した. それはハノイ氏のメッセージの中の「修復」を連想させる. それに,今問題となっているハードディスクも ハノイの塔を連想させるではないか….

  4 ギガバイトのハードディスク. ギガというのは,メガの千倍の単位だ.メガはキロの千倍. コンピュータ業界では, 210 = 1024 が 1000 に近いことから, 210 バイトを 1 キロバイトといい, その 210 倍を 1 メガバイト,さらに 210 倍を 1 ギガバイトというのだった. つまり, 1 ギガバイトは 210 × 210 × 210 = 230 バイト になり, 4 ギガバイトなら 232 バイトである.

  232 と言えば, 32 段のハノイの塔の解法の手数ではないか. そのハノイの塔は移動のプロセスでいろいろな形に姿を変える. ハードディスクもユーザやシステムのアクセスに応じて, 時々刻々その内容を変えている. そして,クラッシュ. その悲劇の直前の状態に戻したいと,今,私たちは知恵を絞っている.

 つまり,ハノイの塔をやっている途中で何らかの妨害が入り, その途中経過の姿が壊されてしまったとしよう. 初めからやり直すのではなく, 何らかの方法でその状態に修復せよというのが, ハノイ氏の問題の意味なのではないだろうか?

  「なるほど」

 この言葉は守屋君に対するものではなかったが, 彼は自分のアイディアに対する評価と思い込んだようだった.

  「先生,もう大丈夫です. 先に研究室に戻ってコーヒーを飲んでてください. ぼくは磁気テープを掛けてから行きますから.」

  「OK. 他の人には私から謝っておくから,それで何とかなるだろう.」

 これでハードディスクのクラッシュ問題は解決を見たが, 今度はハノイ氏の問題が気になりだしてきた. 数学者の勘として,これはおもしろい問題に発展しそうだと直感したのだ.

 しかし,磁気テープに保存されているデータは, ハノイ氏からメールを受け取る以前のものだった. そのデータの中には,ハノイ氏に関する情報はいっさい残っていない. 仮に,この新たな問題の答えがわかったとしても, それを彼に伝えてあげる術を失ってしまったことになる.

 いずれにせよ, この問題はハノイの塔というパズルから派生した ある種の組合せ的な問題にすぎない. その答えがわかろうとわかるまいと, ハノイ氏にとって,それほど重大な意味は持たないだろう. ましてや,人類にとって….

 それよりも,私がこれから解決すべき問題は, 先ほどの研究室から聞こえてきたクラッシュの謎を解くことである. そして,恐る恐る研究のドアを開けるやいなや,

  「あ,先生だ.おっはよーございまーす.」

 と勢いのよい渡辺君の声が私を直撃した.

  「さっき,何か騒いでいただろう?」

 探りを入れる調子で問いかけてみたものの, すかさず次の言葉が返ってきた.

  「先生のお茶碗,割っちゃいましたー.新しいの買ってきまーす.」

 こう開けっぴろげに言われてしまうと, 怒る気にもならない. 私のお気に入りのパディントン・ベアの絵の付いたマグカップは とっくにいくつかあるごみ箱のうちのどれかに姿をくらましていた.

  「今日のところは,このカップで我慢してくださーい.」

  「はいはい.」


つづく

目次へ

negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/5/1]