第三の理/第21話
ハノイの塔の真相

 再び,ドイモイ君の不可解な言葉が続く.

「さらに,不可解なことが起こりました. といっても,それは先生にではなく,私にです.」

「それはどんなことなんだい?」

「簡単に言うと,私は先生の中に宿っている第三の理に同化したんです. それは,第三の理の継承者の考えに同化することでもあります. その同化が果たせた瞬間に,すべてがわかりました. 私が第三の理を宿した子として育てられたわけも, 父や叔父が日本留学を勧めた意味も.」

「え? それはさっき話してくれたじゃないか.」

「はい.でも,それは表面的なことです. その背後にある重大な意味がわかったのです. そして, ハノイの塔が実在することも. さらに,不幸にもその塔が崩れてしまったこともわかりました. そのすべてが私の頭の中に湧き出てきたのです.」

「うーん.」

 ドイモイ君は多少興奮気味だった.

「それはちょうど最後に先生と話をしていた最中のことでした. それで,私はいても立ってもいられなくなって, 失礼だとは思ったのですが,急にいなくなってしまったのです. 申し訳ありませんでした.」

「気にすることはないよ.」

「その後,私は自分の理解を確認するために,ベトナムに帰ることにしたんです.」

 それだけの理由で帰国してしまうなんて納得できないという人もいるだろう. しかし,何かの啓示とも思えるような理解を得たことのある人なら, このドイモイ君のはやる気持ちがわかるはずだ.

「そうだったのかぁ. こんな話を指導教官の先生に説明しても信じてはもらえないよね.」

「はい.」

「それで,村に帰り,父にハノイの塔のことを聞いてみると, やはり塔は崩壊したと言うんです. その事の重大さに興奮している私をなだめながら, 父は,私が第三の理に目覚め, ハノイに戻ってきたことを祝福してくれました. 母は事情をよく理解していないようですが, 私の帰国を喜んでたくさん料理を作ってくれました.」

「それはよかったね.」

「はい.そして,フォーやブンチャー を食べながら, 父がハノイの塔に関わるすべてのことを話してくれました.」

「ほー.それは興味津々だね.その話を聞かせておくれ.」

「はい.では,そもそもハノイの塔を作ったのは誰だと思いますか?」

「えー.そんな言い方をするところをみると, 宇宙人が作ったなんて言い出さないだろうね.」

「とんでもありません.ハノイの塔を作ったのは, れっきとした地球の人間ですよ. でも,彼らは私たちの常識を越えた世界の人たちです. それは….」

 それは 1 万数千年前のこと,つまり, 私たちが知っている人類の文明の始まりよりもさらに昔のことだった. その超古代に,ドイモイ君の村がある地域を中心に, 今までとはまったくコンセプトの違う文明が栄えていたという. そこに住む人々が, 第三の理を基本原理とする世界観を創り上げ, その象徴としてハノイの塔を作ったのだった. そして, 人類のゆく末を案じ, すでに再三登場してきた「物の理から人の理への移行」 こそが 文明の発展や人類の進歩の方向であると定めて, あの僧侶たちの儀式が開始された. したがって,ハノイの塔の形状は人類の進歩の指標となっている.

 ところが, 地球に大異変が起こり,超古代文明はすべて崩壊してしまった.

 しかし, 第三の理を宿した少数の生存者たちによって, ハノイの塔の崩壊はくい止められた. 第三の理を根拠にその形状を維持しているハノイの塔は, 物質界の破壊によって崩壊することはなかったのである. そして,その儀式も細々と続けられていた.

 とはいえ,その後,この地域に大きな文明が復興することはなかった. そのため,超古代のように,第三の理が人類全体の行動原理として, 全世界に行き渡ることはなかった. また,その地に建国されたベトナムの歴史は他民族による支配の繰り返しだったため, ベトナムにおいても第三の理をそのままの形で伝承していくことは困難だった.

 もちろん,新たに発生した文明にも第三の理に対応した概念は存在する. それは数学それ自身ではないが, “数学 ”という言葉で象徴されるものとして受け継がれていった. それぞれの文化圏に出現した天才たちは 数学的な原理に支えられた多くの発明や発見をする. それによって, その地域の文明や文化が発展する.

 第三の理の“現れ ”は文化圏に応じて様々である. したがって,超古代のように単一のものとしてではないが, 第三の理の発想は全世界を薄膜のように覆っていったといえるだろう.

 それを象徴するエピソードとして思い付くのは, いわゆる「大航海時代」である. 何の印もない大海原に,自分の命を賭けて船出していった冒険家たち. 彼らの精神を支えたのは,地球が丸くて有限だという信念と, さらには, 地球と天球という球体を対象とする数学である. その知識なくして,世界中を航海することは無謀としか言いようがない.

 無数の船に乗った数学が地球上をくまなく覆い尽くしていく様を想像してほしい. 地球儀の完成という偉業もさることながら, 数学,もしくは第三の理によって支えられた精神が世界観を構築していく. 私はその構図に感動せずにはいられない.

 このような状況は,第三の理に連動するハノイの塔の形状を強固なものにしてくれる. ところが,この 20 世紀後半になって, その状況自体が崩れだしたのである.

 それは,第三の理を宿した人間と その恩恵を受けるにとどまる人間たちとの遊離が進んだことに起因している. もちろん,科学者や技術者以外の人たちが, 数学的技能に長けている必要はない. しかし,自分たちに恩恵を与えてくれる科学技術の背後に “数学 ”が存在しているという認識は,万人にとって重要なことである.

 とはいえ,「数学」という道具は,意味の理解なくしても利用可能である. 例えば,電卓さえあれば,その原理を知らなくても, 難しい計算ができてしまうようなものである. 確かに, それも数学の 1 つの利点ではあるが, 20 世紀が終わろうとしいる今, それが裏目に出てしまったのである.

 戦後の急速な経済成長と連動して, 効率偏重が全世界に蔓延してしまった. そのため,目先の効率ばかりを追求し, その効率を生み出す数学的原理の理解やそれを支える精神 を軽視する者たちが増加しだしたのである. その増加は指数関数的な人口増加に比例して,かなり急速なものだった.

 さらに,マスメディアの発達がそれに拍車を掛ける. 知識人,文化人と呼ばれる人々が, 数学を排したところでものを考え,この世を規定していく. それが様々なメディアに乗って世界中に広がり, 人々の頭の中に注入されていくのだ. そして,人々は自らの心の中に噴出する第三の理の現れに気づかず, 外から注入された言葉を自らの意志と錯覚して口にするようになった.

 一方,数学を本業とする者たちも,自らを世間から隔離し, 自分たちの認識や価値観を世界に広める努力を怠ってきた. そのため,学生時代に抱いた公式運用術という数学の印象は払拭されないまま, 大多数の人間の心に宿り続けることになる. もはや,「数学」 という言葉は, 第三の理に触れるためのキーワードとして機能しなくなっているのだ.

 形骸化した「言葉」は「形」への逆行である. 第三の理を軸として結合していた「数学」という言葉は結合力を失い,分解する. mathematics, mathe'matique, Mathematik, matematica, …. それは単なる教科の名前でしかなく, また,多くの者にとっては, ある種の心的苦痛に付けられたラベルでしかなくなっていった. そして, この状況に連動して, 地球の表面を覆っていた第三の理の被膜に亀裂が入りだしたのである.

 それはハノイの塔に影響を与える. 第三の理を根拠にその形状を維持するハノイの塔は, 人類の第三の理からの乖離に敏感に反応し,崩壊しかねない. ドイモイ君の村に住む第三の理の継承者たちはそう判断し, この事態を打開するための対策を練ったのだった.

 すでに述べたように, 第三の理の“現れ ”は世界各地の文明や文化に依存して異なっている. そして,その地域の人々の心に浸透している第三の理も その“現れ ”の影響を受けて, 超古代からベトナムに伝承されているものとは微妙に異なるものになっている. したがって,伝承のまま,単一的に第三の理を扱い対処することは 現状を無視したものになってしまう.

 そこで,彼らは手始めに彼らの後継者たちを全世界に派遣して, それぞれの地域における第三の理の“現れ ”を学び, さらに,そこにいる第三の理を宿した人間を探し求めることにしたのである. そして,世界中のそうした人間たちとネットワークを築き, 地球を覆う第三の理の被膜を修復していこうと考えたのである.

 幸い,ベトナム戦争が終結し, 他民族からの支配に終止符を打つことができたベトナムでは, 民主化政策が推進されて,人々が海外に行くことも自由にできるようになった. このタイミングを見て,第三の理の継承者たちは, 彼らの後継者となるべき若者たちを大量に海外に派遣し始めたのである. そして,ドイモイ君もその世界に派遣された人間の 1 人だったのだ.

 もちろん,この話はベトナム人でも限られた人しか知らない. 身近にいるベトナム人に聞いてみたところで,一笑されるだけであるから, うかつにこの話をしないように.

  「うーん.凄い話になってきたなぁ. ドイモイ君の日本留学にはそんな深い意味があったのかぁ….」

「はい.でも,手遅れでした. ハノイの塔は崩壊してしまったのです. 第三の理に目覚め, 帰国して,自分が第三の理の継承者になる定めだったことを聞かされたものの, 今の私に何ができるのでしょうか? どうやって崩壊したハノイの塔を修復したらよいのでしょうか?」

「なるほど. それで私に手紙を書いたんだね.」

「はい.そのとおりです.」

 その言葉を聞いた私の脳裏には 1 つのフレーズが浮かんできた.

「第三の理が人の理と交わり言葉となる. その言葉が人を動かし,物としてのハノイの塔を修復する. そういうことだろう.」

「は,はい.そのとおりです.私もそう考えて,先生に手紙を書いたんです.」

 ドイモイ君は私の言葉にかなり驚いたようだった. 彼が考えていたこととその言葉が完全に一致したからにちがいない.

「それにしては,曖昧な手紙だったね. その要件をきちんと書いてくれればいいのに.」

「はい.実は今も同じような手紙を書いていたところなんです.」

 とドイモイ君が書きかけの便箋を手に取って私に見せた. そこには,確かにアルファベットが綴られていたが, アクセント記号が随所にあり, 英語とは思えない単語が並んでいた. 私には判読不可能である.

「すでに同じ内容の手紙を何通か海外に散っている仲間たちに出しました. 第三の理に目覚めることができない者たちがハノイに結集をしても ハノイの塔の修復に役立つどころか, 崩壊を促しかねません. だから,….」

 ドイモイ君は私の表情を探っているようだった. そして,すまなそうにトーンを落として話を続けた.

「たいへん失礼だとは思ったのですが, 結果的に私は先生を試すことになってしまいました. すみません. 先生ならあの手紙に反応して,私のところに来てくれると思ったんです.」

「なるほど.私は試験に合格というわけだね.」

「も,もちろんですとも.先生. 私の生み出す言葉ではハノイの塔の修復には不十分です. でも,先生の心を動かすことはできたんです.」

 ドイモイ君の目が輝きを増した. 言うべきことは言い,私にそれを受けとめてもらえたことを確信したからだろう.


つづく

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negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/11/4]