第三の理/第12話
畏怖の念

 その後, 食事をしようと, 菅野さん,中本君,田沼君を引き連れて, 行きつけの「おかあちゃん」 という食事処に向かった. バスのロータリーがある大学の南門を抜け, 軽い下り坂を下りたところにその店はある. まだ,暖簾が掛かっていたので,よしよしと扉を開けてみると,

「いつも悪いね.先生.もう御飯,終わっちゃったの.」

 とおかあちゃんの声が返ってきた. それは残念. 私たちは,しかたなく隣の「三七栄」 に入ることにした.

 かくして, 食事モードから,飲みモードに変わってしまった. まあ,それもよい. 久しぶりに菅野さんに会ったわけだし, ゆっくり酒を酌み交わそう.

「こんばんはー.混んでいるねぇ.」

「はい,先生.今日は先生の貸し切りですよ.」

 「三七栄」 の大将と嫌み混じりの挨拶を交わして, みんなで奥の小さな座敷に上がり込んだ. そこは韓国風焼き肉料理を自称しているお店なので, その座敷には焼き肉用の焜炉が付いたテーブルが 2 卓置かれている. 私たちはその奥の方を陣取った.

「先生,何にしましょう.」

 女将さんの言葉に,お決まりの反応をする.

「じゃあ,とりあえず,ビール 3 本ね.」

「はい,ビール 3 本.」

 カウンターの中でも大将が「ビール 3 本」 を繰り返した.

「先生, 2x + n-1 の法則ですね.」

 私たちのやりとりを聞いて, 田沼君がこう言った. それを聞いて菅野さんが不思議そうに続けた.

「 2x + n-1 ? それ,何なの?」

「田沼,説明してあげなよ.」

 それは私たちが勝手に決めているビールの正しい注文の仕方だった. n 人でお店に入ったら, まず n-1 本のビールを頼む. その後は 2 本ずつ追加する. そうすると, x 回追加したときには, 全部で 2x + n-1 本注文したことになるというものだ.

 それはどうでもよいのだが, 私が田沼君に説明を求めた意図は, 田沼君が菅野さんと話をするきっかけを作ることだった. ここのところ, 田沼君は,修士課程修了後に 中本君のように博士課程に進学するか, 進学を断念して教員になるかを悩んでいるらしい. どちらを選択するにせよ, 決定を下す前に, 現場の先生の話をよく聞いておいた方がよいだろう.

 菅野さんは,自分が勤務している高校は女子校だし, 多少,特殊なところもあるので, あまり一般的なことは話せないという前置きの後, 田沼君にいろいろと話をしてくれた. そして,最後に,

「でも,田沼君がやりたいことを大事にすべきよ.」

 と付け加えた.

「ですねぇ.」

「じゃ,田沼がやりたいことって何なんだ?」

 と私が聞くと,

「うー.このまま数学を続けたいですけど….」

 と,田沼君は歯切れの悪い答え方をした. その様子を見て,中本君が

「別に,高校の先生になったって, 数学は続けられるぞ.菅野先生みたいにさ.」

 と切り込んだ.

「ですねぇ.」

「それはそうだけど,現場には,いろいろと苦労があって, 大手を振って,数学ができるわけでもないのよ.」

 そう言った後, 菅野さんは, 現場にはいろいろな考え方の先生がいて, 学校で教える数学以外に興味を持つことを歓迎しない雰囲気があることを 教えてくれた. その詳細はここでは書けないが, 彼女の苦労に敬意を表したい.

「でも,数学っていいわよね.」

「どこが?」

「だって,自分が謙虚になれるもの.」

 確かに,数学に対する自分の謙虚さを口にする数学者は多い. というのも, 完成された数学の理論の中には, あまりにも精巧で,あまりにも美しく, あまりにも出来すぎているという印象を与えるものが たくさんあるからだ. こんなものは人間の力で到底作れるわけがない. 何か大いなる意志によって創造されたものだとしか思えない. それを人間は解読しているだけだ. そういう想いから,数学者はこれから挑もうとする 巨大な未知なる空間を前にして,謙虚になるのだろう.

「でも,あなたは謙虚なタイプじゃないわよね.」

「まあね.」

「その謙虚さって,数学に対するものであって, 数学者が人として謙虚かどうかは,かなり怪しいわよね.」

「ですねぇ.」

 菅野さんにやられている私の姿を見て, 中本君と田沼君が喜んでいた.

「そういえば,数学に対する畏怖の念が どうのこうのと言っていた人がいたわ.」

「畏怖の念って,神様に感じるものですよねぇ.」

「そうかもしれないわね.」

「なるほど.その畏怖の念もわからないでもないな. でも,私が感じる畏怖の念は, それとは少々違うような気がするなぁ.」

「どうちがうの?」

「うーん.なんていうか,『わからされてしまう』という感覚だな.」

「なんか,変な日本語ね.」

「要するに,数学の問題と対峙していると, 私の方からわかるのではなく, わからされてしまうんだよ.」

 それは,あくまで数学の問題なり,解明したい現象なりがあり, それに長時間関わっているうちに, その中に私自身が取り込まれてしまうという感覚である. そのとき,人間がそれに立ち向かっているという構図は崩れ, もはや謙虚さを感じるべき人間の存在さえも消滅してしまうのである.

 「わからされてしまう」とは確かに怪しげな日本語になっているが, 受動態を能動態に変えて「わからす」 とすると, その主語が気になってくる. 上ではそれを「数学」として述べているが, それは学問としての数学とは趣の違うものだ. それはいったい何なのか. 現段階で,それをうまく表現できないのが口惜しい….

 なんやかやと話しながら, 酒飲みモードの時間はあっという間に過ぎてしまった. はたして, x の値はいくつだったのか? それを確認することもなく, 大将に言われたままに金を払い,店を出た.

「今日は楽しかったわ.どうもありがとう.」

「こちらこそ. 2 人も喜んでいるようだし,またおいで.」


つづく

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negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/11/4]