第三の理/第6話
三つの理

 ドイモイ君に置き去りにされてしまった私と田沼君は 研究室でしばらくドイモイ君の話に登場した 3 つの理について語り合った. 物の理,人の理,そして第三の理. ドイモイ君が話したハノイの塔の言い伝えは, 3 つの“理”という概念を用いて この世界や宇宙のあり方を象徴的に表現したもののように思える. しかし,その 3 つの理とはいかなるものなのだろうか….

  「先生.物の理というのはわかりますよねぇ. 漢字で書けば“物理”なわけだから, 物の理は物理法則ということですよね.」

  「そうだろうね.」

  「で,第三の理が何なのかは全然見当もつきませんが, 人の理というのは,うーん….」

  「人理という言葉は聞かないしね.」

  「ですねぇ」

 そう相槌を打った田沼君は早く次の言葉を言いたいという表情だった. しかし,そのアイディアはすぐに却下されてしまうものだった.

  「でも,先生.倫理って言葉が近いんじゃないでしょうか?」

  「そりゃないよ.道徳観のようなものはその時代時代で変わるものだろう. そういう変化してしまうものを世界を司るものに選ぶ世界観というのは, どうもなぁ….」

  「ううーん.ですねぇ.昔はチャパツにしているのって不良だったけど, 最近ではただのファッションですもんね.」

  「そうだけれど,そういうこととドイモイ君の話を一緒にしちゃうわけ?」

  「うー.」

 田沼君ががっかりしているのがよくわかった. しかし,それも瞬間的なもので, 彼はドイモイ君の話を頭の中でプレイ・バックして, 人の理のヒントになるものを探しているようだった. それを察して,私が話し始めた.

  「ドイモイ君の言葉を思い出すと, 人の理というのは,少なくとも人の精神に関わることだろう. 世界は物の理から人の理に移行しなくてはいけないんだろう. 人間は多くの試練を乗り越えて….」

  「ですねぇ.」

  「要するに,物の理と人の理の関係は, 唯物論と唯心論の関係みたいなものなんだろうな….」

 それを聞いて,田沼君は私に探りを入れるように話しだした.

  「ですかぁ.で,先生はどっちなんですか?」

  「どっちって?」

  「唯物論なのか,唯心論なのかですよ.」

  「じゃ,田沼はどっちなんだ.」

  「ええー.ぼ,ぼくは先生の話を聞いてから決めます.」

  「ずるい奴だなぁ.ひょっとして,唯物論と唯心論が何なのかを知らないんだろう.」

  「そ,そんなぁ.知ってますよ,そのくらい. 唯物論ってのは実在するのは物だけだってことでしょ. で,唯心論は人間の精神こそが実在するってことですよね.」

  「そんなところだ.」

 あまりいじめてもかわいそうなので,私が続けた.

  「まあ,科学者だったら唯物論と言うのだろうけれど, 私は数学者だからね.」

  「というと?」

  「科学的事実だからどうのこうのという発想でものを考えないということさ.」

  「え.じゃあ,数学者はどうやって考えるのですか?」

  「無矛盾な体系かどうかという観点で考える.」

  「無矛盾? 矛盾がないってことですか?」

  「そうだよ. 例えば,科学的には幽霊などいないと言うだろう.」

 田沼君は私の 「例えば」 という言葉に身構えた. というのも,その後に続く私の言葉は 難しい内容を説明していることが多いからだ.

  「数学的には,幽霊が存在すると仮定して,矛盾のない世界観が作れるかどうか, 逆に存在しないと仮定して,無矛盾な世界観が作れるかどうかと考えるのさ.」

  「なるほど.」

  「物理法則だけを根拠に世界はできていると信じている科学者にとって, 幽霊の存在を否定しても何も矛盾を感じるところはないだろう. だから,それはそれでいいのさ.」

  「でも,幽霊がいるとしか思えない話をテレビとかでよくやってますよねぇ.」

  「それだって,まだ解明されていないだけで, 何らかの物理現象なのだと思ってしまえば,矛盾はないさ. 反対に,心霊学者の話にしたって,どこにも矛盾がないのなら, 数学的には正当な世界観として認めざるをえないと思うよ.」

  「えー.そんなぁ.数学者はどっちも認めちゃうんですか?」

 田沼君はどちらも容認してしまうという私の発言にかなり納得がいかない様子だった.

 普通の人たちは,数学では何でも白黒がついて 答えは 1 つだと思い込んでいる. もちろん,通常の世界ではそのとおりなのだが, 数学基礎論にからむデリケートな議論をすると, 必ずしもそうではない. 実際,連続体仮説 にまつわる問題にそういう現象が起こることが, 20 世紀になって,有名なゲーデルを初めとする数学者たちによって発見されている.

  「なんだか,ずるいですねぇ.」

  「そんなことを言ったって, 幽霊の存在なんて数学的な命題ではないのだから, 数学者がどうこうという問題ではないだろう.」

  「ず,ずるい.」

  「そう,ずるいずるい言うなよ.」

  「だってぇ….」

  「引き合いに出した例が悪かったのかなぁ. いや,待てよ.数学者として,幽霊の存在に決着をつける方法が 1 つだけあるぞ. ま,幽霊というよりも,霊魂の存在かな….」

 この言葉を聞いて,不満げだった田沼君の表情が和らいだ.

  「霊魂を呼び出せるという霊媒師がいるだろう.」

  「はいはい.」

  「その人に,例えば,フェルマーの霊魂を呼び出してもらうのさ. そして,『あなたが欄外に書き残せなかった最終定理の証明を教えてください』と 聞くのさ.」

  「なーるほど. その最終定理って, xn + yn = zn には n = 2 の場合以外には自然数解は存在しない というやつですよね.」

  「そうだよ. フェルマーがディオファントスが書いた『算術』という本を読んでいて, 自分の考えをその欄外にメモしていったという話は有名だよね. そのメモの中でも特に有名なのが,君が今言っていたことさ. フェルマーは n ≧ 3 ならば xn + yn = zn には自然数解が存在しない と主張している. しかし,欄外が狭すぎて,その証明が書けないと書き残しているんだ.」

  「確か,先生,最近,そのフェルマーの最終定理 は証明されたんですよねぇ. ワイルスでしたっけ.」

  「そのとおり.ワイルスによってフェルマーの主張が正しかったことが示された. でも,はたしてフェルマーがどんな証明を思い付いたのかは, 依然として謎のままなんだ. だから,フェルマーの霊魂を呼び出せるというのなら, フェルマーがどういう証明を考えていたのかを聞いてみたいじゃないか.」

  「ですねぇ.」

  「まあ,霊媒師に呼び出されたフェルマーの霊魂が こちらの問いに素直に答えてくれるかどうかは怪しいけどね. もし,『今は話したくない』と言われたら, その霊媒師がインチキなのか,本当にフェルマーの霊魂がいやがっているのか 判定がつかないよね. でも,証明を話しだしたら,それは驚きだ. 数学者として,フェルマーの霊魂の存在を認めざるをえないだろう.」

  「でも,その霊媒師が最近よく本屋さんで見かけるフェルマーの最終定理の 本を読んで勉強していて, 『やぁ,ワイルス君はよくやったねぇ,私の考えていたことと同じだよ』 とか言ったら,どうするんですか?」

  「その場合は簡単さ.それはインチキだ. だって,ワイルスの証明は 20 世紀になって発展した理論をたくさん使っているから, フェルマーの時代にはそういう証明などできるわけがない.」

  「そうかぁ.でも,先生, フェルマーだって霊界でいっぱい勉強しているかもしれませんよ.」

  「そうだなぁ.その場合は,最終定理の証明についてとことん質問をしてみるよ. それに見事に答えたら,やはり霊魂を認めざるをえないな. 霊媒師の知識で専門家と対等に数学を語れるわけはないからね.」

  「ですねぇ.」

 田沼君はうきうきした様子で, 研究室の天井のあちらこちらを見ていた. これは頭の中で何かを探し求めている仕草だ.

  「そうかぁ.」

  「何がそうかなんだ.」

  「いえいえ,先生.ドイモイ君の話ですけど, 人の理というのは,もしかして,人ではなくて, 霊魂の世界の法則ではないでしょうか?」

  「死後の世界とか,霊界とかのか?」

  「そう言ってしまうと,なんか違う気もするけど….」

  「私はドイモイ君の話をオカルト的なものとは捉えたくないな. あれは象徴的な話で,物質と人間の精神の関わり合い方を表現しているんだろう.」

  「うー.」

 そのとき,私の研究室をめがけて廊下を走ってくる音がした. スリッパの踵を擦るような足音は,守屋君のものにちがいない. 案の定,それまでコンピュータ室にいたはずの守屋君が研究室のドアを開けた. 前回の登場と違って,今回はやけに陽気な感じである.

  「先生.ついに ems0 がいっちゃいました.」

  「いっちゃったって,どうしたの?」

  「もう顔色が悪くなっています.コホホ. コンピュータ室に行って,見てやってください.」

 ems0 とは,それまで私たちのコンピュータ室のネットワークと 外の世界のネットワークをつなぐゲートウェーの役割を果たしていた ワークステーションの名前である. それがトラブルを起こしてしまうと, 外の世界との通信ができなくなってしまう. それなのに守屋君が陽気なのは, 旧式な機種である ems0 を廃棄して, 新機種に買い替える理由ができたからだ.

 いずれにせよ,守屋君の指示に従い, 田沼君を引き連れてコンピュータ室に急行した. そこには確かに顔色の悪い ems0 がいた.

  「ありゃー.この子,顔色が紫ですねぇ!」

 幸いネットワーク関係のトラブルではなかった. カラー・ディスプレーに送られる信号の一部が欠落して, 画面の色が正常に発色しなくなっていたのだった. ディスプレーにつながる何本かのコードを抜き差ししてみたが, ディスプレーの故障なのか, ワークステーション本体内のボードの故障なのか, システムのせいなのかは判定できなかった.

  「いずれにせよ,修理をしてもらうと,すごくお金が掛かるだろうな. 今時の新しい機種を買った方が安くすむかもしれないぞ.」

  「そうだ.そうだ.」

 喜ぶ守屋君は ems0 をネットワークから切り離すことを提案した. 私たちもその提案に同意した. 守屋君は ems0 をネットワークから切り離すための作業に取り掛かった. 私と田沼君は梱包用の段ボール箱が積み上げられている コンピュータ室の一角に ems0 用の箱を探しにいった. その箱は ems0 の棺といったところだろう.

  「盛大にお葬式をしてあげましょう.」

 田沼君も段ボール箱を見て,私と同じことを連想したようだ.

  「ところで,先生. あの子の魂はどこに行ってしまうんでしょうね. やっぱり,コンピュータは機械だから,物の理かなぁ?」

 まだ,ドイモイ君の話が尾を引いているようだ. という私も,田沼君のその言葉に触発されて, 今まで私が疑問に感じていたあることを思い出した. それは人の理に関係があるかもしれない.

  「偉いぞ,田沼!」

  「へ?」

  「もしかすると,人の理というのは, 我々の意識の存在に根拠を与える原理なのかもしれない. 私は昔からその意識の存在が不思議でならなかったんだ.」

  「えー.なんでですか? 自分の意識の存在を疑ってしまったら….」

  「存在は疑っていないさ. 例えば,どうして,私の前に, こういう視野が広がっているのかが不思議でならないのさ.」

 田沼君は何を言い出すのだと言わんばかりの表情だった.

  「だって,先生.それは目があるからでしょう. 目があって,そこから入った情報を脳が処理して, そういう映像を作っているからじゃないですか.」

  「もちろん,それはそうだけれど,どうして,青い空は青く見えるんだ?」

  「えー.それは青いからですよ. 青い光が目に入るからですよ.」

  「そのとおり. でも,世の中にある青い物と赤い物がすべて総とっかえになったって, 何も矛盾は起こらないだろう. 生まれた時から,田沼が見ている青い物が私には赤く見えていたとしても, その赤を『青』と言うんだと信じ込んでいる私と田沼が話をしたところで, 何も矛盾が起こらない.」

  「うー.」

  「だから,青は青でなくてもよいのに,なぜ青は青いんだ. その根拠が私にはわからない.」

  「せ,先生.私にはわからないって言うけど, ぼくには先生の言っていることがわかりませんよ.」

  「そうか.すまんすまん.例えば….」

  「例えば?」

 田沼君は身構えた. 私はその緊張をほぐすように笑顔を作って, 守屋君が作業をしているワークステーションを指差した.

  「いいかい. あのディスプレーには,単に RGB に対応した信号が入力されているだけだろう. それなのに, (0,0,256) という信号が入力されると, ディスプレーには青い点が現れる.」

  「はい.」

  「でも,別にその点が青でなければならない絶対的な理由があるわけではないんだ. 色の指定方法にはいろいろな方式があるからね. つまり,人間が『 (0,0,256) という信号は青に対応する』と決めたからこそ, ディスプレーに青い点が現れるんだ. その RGB 方式 で色を指定しようという人間の意志によって….」

  「なるほど.」

 その言葉が納得を意味していないことは明らかだった. いつもなら,それを指摘して茶化しているところだが, 私は自分の言葉の勢いに任せて話し続けた.

  「 (0,0,256) という信号を私の目に入る青い光線, ディスプレーの青い点を私の意識が見ている青い空に対応させれば, RGB 方式を採用した人間の意志に対応するものが必要だろう. それが人の理なのではないのか! 物の理だけでは,私に空が青く見えることの根拠にはならないんだよ. それを補う原理が人の理なんだ!」

  「うー.先生.よくわからない….」

 よくわからないと言いながらも, 田沼君は何かをつかんだようだった.

  「でも,先生.先生の話はよくわからないけれど, ひょっとして,そのわからないのって, 第三の理だったりしませんか?」

  「どういうことだ?」

  「物の理と人の理は,物の法則,人の法則って単純に思えるけれど, 第三の理は何だかわからないですよね. そのよくわからないところが, 先生の話のよくわからないところと同じだと思うんです.」

 田沼君の言葉をそのまま理解してしまうと, 彼には私の話も第三の理もわからないと言っているようにも聞こえるが, 私は彼が非常に深遠な意味でこう言っていることを察した. 私の話の不可解さ,そして未知の第三の理の不可解さ. その共通項から,その両者はつながりのあるものではないかと 田沼君は直感したのである.

  「ひょっとして,田沼は凄いことを言っているかもしれないぞ.」

  「え,えー!」

 これは非常に鋭い指摘なのかもしれない. 世の中は物質と人の精神だけを根拠として存在できるものではないのだ. ドイモイ君から聞いた話だけからでは第三の理の正体を明らかにはできないが, やはり,物の理,人の理に継ぐ第三の理が必要なのではないか….

 いずれにせよ,それは象徴的な話であって, ハノイの塔の実在を立証する根拠にはならない. そして,今,解決しなければならないのは, 目の前に積み上げられた段ボール箱の塔を崩さないように, ems0 の棺を取り出すことである.

  「まあ,いいや.とにかく,私がこれを引っ張り出すから, 田沼はこの辺を抑えていろよ.」

  「はい.」

 そうこうしているうちに, 守屋君は必要なデータを他のワークステーションに移し, ems0 のシステムをシャット・ダウンして, 生命維持のためにつながれていた諸々のコードを取り外していた.

  「できました.」

 守屋君のその言葉にせかされて, 慌てて段ボール箱を抜き出した. おかげで他の段ボール箱たちは安定を失い,崩れ落ちてしまった.

  「これはあと. ems0 の葬儀を先に進めよう.」

 守屋君のところにその箱を運び, 慎重に ems0 をその中に入れる. その上に発泡スチロールを乗せ,最後に蓋を閉める.

  「迷わず,成仏してください.」

 と田沼君が言った.


つづく

目次へ

negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/5/1]