第三の理/第18話
車中での回想

 翌朝,目覚まし時計のアラームが鳴り出す直前に目を覚ました. 8 時 59 分だった. 昨夜の思考が継続しているような気分である.

 トイレに行って,歯を磨き,顔を洗って, 熱めのシャワーを浴びて,身体を起こす. 起き抜けで朝食を食べる気にもなれないので, そのまま家を出た. 名古屋に着いたら,きしめんでも食べよう.

 幸い,私の家は新横浜駅までバスで 1 , 2 分のところにあるので, 新幹線に乗るにはたいへん便利である. 待つ間もなくバスに乗れたし,新幹線への乗り継ぎもよいタイミングだった. ホームの自動販売機で缶コーヒーを買い, 先頭車両の禁煙車に乗り込むと, 運よく海側の席に座ることができた.

 新横浜を出ると,しばらく山と民家が混在した景色が続く. 私はその景色を眺めながら,昨日のことを振り返り, いろいろと思いを巡らした.


 神田の本屋街,そして,三省堂. それは私にとって記念すべき場所だった. ハノイ氏の問題が解決した場所という意味もあるが, そこは私が学者としての道を歩き出すきっかけとなった場所でもあるのだ.

 それは確か中学 3 年生のときだったと思う. 同級生の友達とともに, 受験参考書を買おうとこの本屋街にやってきたのだった. そして,当時,刊行されたばかりの「ブルーバックス」 (講談社)に 出会ったのである. そのシリーズは科学的な内容を素人にもわかるように解説したいわゆる啓蒙書である.

 現在では,どの本屋さんに行っても, 100 冊を越えるブルーバックスが書棚の一角を占めているが, その当時としては, 科学の啓蒙書はたいへん珍しいものだった. その中でも,私の目を引いたのは, 『四次元の世界』と『タイムマシンの話』という 2 冊だった. いずれも相対性理論 をベースに,いろいろな話が書かれていた.

 それを皮切りに, 私はブルーバックスのシリーズを読みあさり, 現代科学の知識を吸収していったのである. 相対性理論あり,量子力学あり. 学校でニュートン力学を習う以前に, それを否定したところで成立する現代物理学の理論を知ってしまった.

 当初はブルーバックスが教えてくる現代物理学の不可思議な世界に魅了され, 大学に進学して物理学を専攻しようと思っていた. ところが,大学に入学してから, しだいに数学に関心が移り, 数学を専攻することになっていった.

 その私の物理学から数学への心変わりは, ハノイの塔が象徴している物の理から人の理への移行に符合しているようにも思える. 誤解を避けるために述べておくと, 決して数学よりも物理学の方が劣っているから心変わりしたわけではない. あくまで私が求めていたものにより近いのが数学だと判断しただけのことである.

 では,その私の求めていたものとは何なのか? ある意味では物理学にも数学にも共通するもの. その両者の根底に存在しているもの. そして,研究者となって数学に取り組んでいるとき, いつも背後に感じている存在…. そう捉えていけば自ずと浮上してくる答えがある. そう. それは言うまでもなく, ドイモイ君の言うところの「第三の理」である. そして,今まで謎のままだった第三の理の正体も, おぼろげながら見えてくる.

 そもそも第三の理とは何なのか?

 端的に表現することは難しいが, 第三の理とは世界がこのような形態で存在していることの根拠 となるものなのではないかと私は感じている. それは,普遍的な秩序とか根本的な原理だと言ってもよいだろう. しかし,それは,善悪の判断基準とか神の意志とか, 倫理や宗教のような価値観に依存して存在するものではない. 誤解を恐れずに言うならば, それは「数学的な原理」である. それが私の頭の中にある第三の理に最も近い言葉である.

 もちろん,数学という学問の発展は人間の価値観と独立ではない. その時代時代の関心事や必要性に大きく依存して作られているのである. しかし,数学が提供する知識や技法は時代を越えて存在可能である. 他の分野の科学的な知識と違って,数学的に証明された事柄は, 後世の天才たちによって覆されたりはしない. この数学の普遍性が第三の理のそれと符合するのである.

 とはいえ,数学という学問は人間がいなければ存在できない. 人間がいればこそ,数学的原理は学問という形態で表面化するのである. そして,その表面化された原理は様々な言葉や形式によって表現される. その表現形態を広い意味で「言葉」ということにしよう.

 第三の理とは数学的な原理とでもいうべきものであるが, 学問としての数学のイメージにとらわれて,その意味を解釈してはいけない. ましてや,学校で習う算数や数学をイメージして 第三の理を捉えることなど,もっての他である. おそらく,私の研究室で話していたときのドイモイ君も, 私と同じことを懸念して, 第三の理に適当な日本語を当てることを控えたのだろう. 物の理,人の理,そして,数の理と言ってしまうと, 聞く者に第三の理とはかなり違う印象を与えてしまうだろう. そもそも数学とて,数の学問と解釈してしまうと, そこからこぼれてしまう分野が山ほどある.

 いずれにせよ,数学を志す者なら,少なからず “数学 ”という言葉によって引き起こされる一種の体感を知っているはずである. それは定義,定理,証明という形式によって表現された数学でもなければ, 一問一答の受験数学のようなものでもない. それは,形式化された学問としての数学ではなく, それを産み出すより根源的な存在としての“数学 ”である. 数学という学問や,数学者の営みを支える土台のようなもの. その“数学 ”に対してある者は謙虚になったり, ある者は畏怖の念を感じたりするのである. それを「第三の理」と呼び, 学問体系としての数学と区別する….

 このように第三の理を捉えると, 学問としての物理学も数学と同じ立場にあることがわかる. 数学を人の理による第三の理の表現とみれば, 物理学も同様に人の理に司られた表現である. しかし,物理学が対象としているものが, 物質界の現象に限定されていることに注意しよう. 人間の営みとしての物理学から人の理を切り離すことはできないとしても, それが扱うものは,物の理に司られた存在である.

 それは広い意味で「形」を持った存在である. 第三の理は物の理と結合すると「形」となって現れるのである. 例えば,地球が近似的に球形なのも, 重力や遠心力のバランスが生み出した「形」である. また,私たち人間の肉体がこのような形をしているのも, DNA に潜む第三の理の現れと考えることもできる.

「第三の理は物と交われば形となり,人と交われば言葉となる.」

 そして,第三の理を宿した者が「形」を「言葉」に変えることができるのだ.

 物の理と人の理,「形」と「言葉」,そして,その根底に存在する第三の理. ハノイの塔にまつわる怪しげな話は別にすれば, ドイモイ君の言っていた世界観は, 世の中の在り様をそれなりにうまく表現している. そして,物の理から人の理への移行という話も 象徴的に捉えれば,なかなかよいことを言っている.

 例えば,私がハノイ氏の問題を解決していったプロセスを思い起こしてほしい. ビラ配りの青年のティーシャツに描かれていた曼陀羅の絵や 本屋で見つけたフラクタル図形は, 私の頭の中のデータ・ベース検索の鍵にはなってくれたが, やはり直接的に問題解決に貢献したのは, 最終的に得られた「ハノイの塔の解明図」である. その「形」が私という「人」と交わることによって,すべてを語りだしたのである. それが語っているものを明らかにするために,考察を重ね,思い込みを排除して, 最終的には手数の 2 進法表現から板の位置を特定するアルゴリズムに到達した. それが「言葉」の部分である.

「形」から「言葉」への移行. それは表現の移行であって,その根底にあるもの, つまり,第三の理が移行したわけではない. 第三の理はあくまで不変なのである. そして,「言葉」への移行が完了すると, 「形」が内包していた以上の事柄が表面化する. それは「具体」から「抽象」への移行と捉えてもよいかもしれない. ハノイの塔の解明図がそうだったように, 具体例の構造が抽象できれば, 汎用性の高い一般的な議論へと発展するのだ. その移行のプロセスも, ハノイの塔の移動の手順のように, 行きつ戻りつを繰り返し, すべての試練を克服した末に完了する.

 こう考えていくと, 「形」から「言葉」への移行は, 人間が自分のおかれている状況を認識し,試行錯誤を繰り返して, 問題を解決していくプロセスを象徴していると思えるではないか. ドイモイ君の話の中では, 人間は世界を物の理から人の理に移行させるための存在だった. それを宗教的な臭いのする怪しげな話と捉えるのではなく, 人間の認知の在り方を示していると思えばおもしろい. そして,それは近年私が提唱している教育観に通じる.

 簡単に述べると, 私は「自己実現」と「自己表現」を基調とした教育をすべきだと訴えている. その自己実現とは,自分はこういう能力を持った存在なのだと認知することである. その認知によって,自己が規定されていき, 人間としてのアイデンティティーを獲得していくことになる. そして,その能力の確信を表現しようとする行為が自己表現である. 特に教科を数学に限定すれば, 自己実現の過程で認知し,意識に顕在化すべき能力は 「構造の理解」だと私は主張している. 人間には,生まれながらにして構造を理解する能力が備わっている. それを顕在化させるのが数学という教科の役目なのである.

 例えば,赤ちゃんに紙と鉛筆を持たせて,自由にいたずら書きをさせると, 初めのうちはぐりぐりと何本もの曲線を描く. そして,偶然,円に近い閉じた曲線が描けると, 赤ちゃんはそれを食い入るように見つめるという. 赤ちゃんはその円に大好きなお母さんの顔を重ねて見ているのだ. 赤ちゃんといえども, 網膜にはお母さんの顔の像が正確に映っているはずである. それにもかかわらず,円とお母さんの顔を重ねて見られるということは, 赤ちゃんにはお母さんの顔に“円 ”という構造を見いだす能力があるからだ と言わざるをえない. これが人間の「構造の理解」の原点である.

 視覚障害者でないかぎり,誰にでも紙の上に描かれた円は“円 ”に見える. 網膜に写ったものが丸い図形だと認知する能力は学校で習うまでもなく, 誰にでも備わっているのである. しかし,円を見て「円だ」と言明すること, つまり,その図形の認知を「円」という言葉を用いて表現することは, 数学を勉強しないかぎり不可能である. ましてや,円を見て「中心から等距離の点の集まりである」という言葉を 生まれながらに口にできる人間などいるわけがない.

 ここで 3 つの円が登場した. 紙の上に描かれた円,その図形の呼称としての「円」, そして,認知すべき構造としての“円 ”. それぞれ順に「形」,「言葉」,第三の理に対応していることは明らかだろう. “円 ”という構造は人間の認知と切り放せないが, やはり“円 ”というイデア が人間とは独立に存在していると 解釈した方がよい.

 うーん. おもしろい. ハノイ氏の問題の完全解決と連動して, 諸々が見えてきた. 私の中にばらばらに納まっていた考えが, 物の理,人の理,第三の理というキーワードによって, 見事に統合されていくではないか! 大げさな宇宙観や世界観, 数学という学問体系や数学者という人間の営み, 人間の認知構造,それを踏まえた教育観….

 ハノイ氏の問題は知的遊技としてのおもしろさを越えて, 私に大きな充足感を与えてくれた. それは私自身が自己完結したという思いに近いものだった. もちろん,ドイモイ君の存在も忘れることはできない. はたしてドイモイ君はこうした私の考えを聞いたらどう思うだろうか? 私の第三の理 の解釈はドイモイ君のそれと一致するのだろうか? ドイモイ君に会って,この思いのうちを伝えたい. しかし, どうやって彼との再会を実現したらよいだろうか?


 そうこうしているうちに,新幹線は小田原,熱海を通過し, 左手の窓には時折,海が見えるようになってきた. 右手の窓には富士山の大きな裾野が控えている. 後頭部にその大きな「形」を意識して,左手の窓の景色を眺める. 何もない水平線. 午前中の光を浴びてきらきらと光る海. 私はそこにどんな「言葉」を並べていけばよいのか….

 しだいに頭をよぎる言葉の数が減っていき, 私はいつしか眠りについてしまった.


つづく

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negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/11/4]