第三の理/第20話
ドイモイ君の部屋

 そこはドイモイ君の部屋だった.

  6 畳程度の床の間に,ベッドと机と簡単な調度が置かれている. 壁には白い壁紙が貼られており, 机が接している面には数枚の写真が画鋲で止められていた.

 ドアと向かい合う部屋の側面には大きめの窓がある. その開け放たれた窓の向こうには,森林地帯に通じる道が見える. 関東ローム層の土のように赤みを帯びた地面は乾燥していて, 風が吹けばいつでも砂埃が舞い上がりそうだ. そして,小石がいくつか転がっている. それはどことなく私が子供の頃に見た光景に似ていた.

 ドイモイ君は机に向かって誰かに手紙を書いていた. 彼が文字を綴っている便箋は, 確かに私が彼からもらった手紙と同じものだった.

 彼は筆を止めて,私に歓迎の言葉を掛けた. 私の突然の訪問には驚いていないようだ.

「先生,いらっしゃいませ.お待ちしておりました.」

 ドイモイ君は袖口の広い白い開襟シャツを着ていた. サラサラの前髪が垂れ,耳が出るように左右を刈り上げた髪型. その前髪の下で, 2 つの瞳が輝いている.

「汚いところですが,そのベッドにでも座ってください.」

 私はベッドの上に腰を下ろし,ドイモイ君は椅子に座ったままこちらを向いた.

「ところで,ここはどこなんだい.」

「もちろん,私の部屋です.先生に送った写真に映っていた部屋ですよ.」

「それはわかっているさ.」

「ここはハノイの中心から少し離れた場所です. 私が勤めている高校の先生たちのために建てられた宿舎です. ご覧のとおり,窓の向こうは森につながっていますが, こちらの扉の向こうはハノイの街の雑踏につながっています.」

 そう言われても,私は扉を開けてハノイの街並みを確認する勇気がなかった. 写真をたよりにドイモイ君の部屋に同化することはできたが, 今の私にはハノイの街に同化できるという自信がなかったからだ.

「ところで,君はどうして突然帰国してしまったんだい.」

 ドイモイ君は当然聞かれるものと覚悟していた様子だった.

「基本的には先生がここにいらっしゃったのと同じ理由です.」

「え? 私は君に会いに来たんだよ.」

「ありがとうございます. でも,先生がここにいらっしゃった本当の理由は, ハノイの塔を修復するためです.」

「確かに,ハノイの塔を修復する方法を完成してきたよ. それを君に話したくてね….」

 私はドイモイ君との再会を願う気持ちを口にした. しかし,そういう情緒的な会話を続けられるような雰囲気ではなかった. 私の行動は,私の個人的な思いを越えて, もっと大きな流れの中に組み込まれているようだ.

「私もハノイに戻ってくるまでは, 私の帰国の本当の理由はわかりませんでした. でも,私もハノイの塔を修復するために,呼び戻された人間の 1 人なんです.」

「というと,やはり,ハノイの塔はどこかにあるのかい?」

「はい.もちろんです.」

「でも,私の部屋で話をしていたとき, 君は本当にあるとは思っていないと言っていたじゃないか.」

「確かに,そのときはそう思っていました. でも,今は存在を確信しています.」

「というとことは,君はハノイの塔を見てきたのかい?」

「いいえ.」

「じゃぁ,どうして….」

 ドイモイ君は彼に詰問する私の言葉を遮って言った.

「すべてを理解するには,もう少し説明が必要です.」

「そうか,それはすまない.話を続けてくれ.」

 ドイモイ君は私に恐縮しているような表情を浮かべながら, どこから話すべきかと,言葉を探しているようだった. そして,自分の生い立ちから話し始めた.

「私は窓の向こうの森林地帯を越えた山岳地帯にある小さな村で生まれました. そして,第三の理の宿った子供として育てられたのです. でも,子供の頃には,その意味が何なのかはわかりませんでしたが.」

「第三の理か. それも君が言い残していった謎の 1 つだったね. 私が思うに,第三の理というのは….」

 私は新幹線の中でおぼろげにつかみかけていた第三の理のイメージを簡単に語った. ドイモイ君はうなずきながら聞いてくれた.

「でも,今思えば,当時は単に算数や数学が得意な子として 扱われていたような気もします. そして, 6 才になったときに, ハノイ市内に住む叔父に預けられて, 都会のいい学校で勉強をすることになったのです. さらに高校,大学と進学して,数学教師になるための勉強をしました.」

「その辺の話は日本にいたときに聞いたような気がするよ.」

「そうですね. それで,教師になって最初の夏休みに村に帰ったときに, 先生の部屋で話したようなハノイの塔の話を父から聞かされたのです.」

「第三の理のこともかい.」

「はい.そして,私が数学教師になるために勉強をしてきたことは, 私の中に宿る第三の理を鍛え上げることになるのだと言われました. もちろん,そのときは,それを象徴的な話だと思っていました.」

「しかし,第三の理は数学とは違うものだろう. だからこそ,君はそれに適当な日本語を当てなかったんじゃないのかい?」

「はい.そのとおりです. 第三の理は私の村に古くから伝わる考え方で, 日本語でいうところの数学とは一致しません. でも,それは数学に非常に関係のある概念です.」

「それはわかっているよ. 簡単に言えば, 数学という学問は第三の理の“現れ ”と言えるよね.」

「そうです.それは 1 つの“現れ ”であって, その“現れ ”はそれを生み出す人や文化に大きく依存します. そして, 先生のように数学を創る立場にある人たちは別とすると, 普通の人たちは,その“現れ ”を通して, 第三の理に触れることになりますね.」

「そうだね.」

「だから,国や文化が異なれば,そこに浸透している第三の理の考え方も 私たちの村に伝わるものとは異なるものになっているでしょう. その違いを学ぶために, 機会があれば,海外に行けと父に言われました.」

「ほー.それが君の日本留学の目的だったのかい?」

「ええ.とりあえず.」

 ドイモイ君の返事は少々歯切れの悪いものだった. 何か含みがあるようだ.

「そして,高校の教師になってから 3 年目の春に 先生の大学の教員研修留学生の話が持ち上がりました. 私は父と叔父の勧めで,その話に乗ることにしました.」

「なるほど. それで,留学の目的は達成できたのかい? つまり,日本の第三の理の浸透の様子はわかったの?」

「はい.お陰様で,いろいろなものを見聞しましたから.」

「その結果はどうだった?」

 ドイモイ君は上目遣いで天井を眺め, 日本で見たものを思い出そうとしている様子だった.

「そうですねぇ. 一言では言えませんが, 日本では,物の中に人の理を感じさせるものが多かったと思います. 例えば,横浜の名所になっているランドマーク・タワーを見て, 先生はどう思いますか?」

「私はああいう未来的な建物が大好きな方だから….」

「そうですね.あの手の高層ビルを見て, 物質文明の権化だとか,非人間的だという日本人によく会いました. でも,私の見解では,物の理よりも,人の理の方が勝っていると思いますよ.」

 ドイモイ君の説明によると, 重力に対抗して,耐震性の高い高層ビルを立てようとする意志に 人の理が存在するという. 単純に物質的な存在だから物の理に司られていると 判断してはいけないようだ.

「日本にいたとき,先生にいろいろなコンピュータを見せてもらいましたが, あれは 3 つの理がとてもうまく融合された機械だと思います.」

「ほー.」

「単にプログラムをすることに使っていた頃は, コンピュータは物の理と言わざるをえなかったでしょうが, 通信の要素が入ってきて,人の理に大きく傾いたと言えるでしょう.」

 ドイモイ君はさらに意外な例を出した.

「でも,日本の数学教育は物の理に偏っていませんか?」

「それはどういう意味なんだい?」

「例えば,中学生や高校生は数学の公式をたくさん覚えようとしています. 公式を暗記して計算するだけではだめですよね.」

 どうやらドイモイ君のロジックでは, 機械的な存在は物の理に偏っていて, 意志が作り出す存在に人の理を感じるようだ. その考え方に従えば, 第三の理に最も近い数学の公式だというのに, その扱われ方は単なる物と変わりがない. 子供たちは,学校や塾で,その物を並べて決まった形を作る練習ばかりしている. その努力が実って成績がよくなった子供は, 世間からは数学ができると思われるが, 決して第三の理に精通しているわけではない.

「そもそも人間は,第三の理を感じ, それを表現できる存在として誕生したのです. その能力を伸ばさない教育は健全とは言えないと思います.」

「なかなか厳しい評価だね.」

 日本にいたときには第三の理を引き合いに出しはしなかったが, 私がドイモイ君に語っていた教育観は彼のそれと基本的には同じである.

「それから,私がたいへん奇妙に思ったのは, 日本のマスコミの数学に対する態度です. 彼らは,日本人が数学を嫌いになるように,仕組んでいるのでしょうか?」

「そんなことはないと思うけど….」

「でも,先生. テレビで, ニュース・キャスターやコメンテーターたちが, 数学に対してバランスの欠けた態度をとるところをよく目撃しましたよ.」

 そう言われてみると,確かにそうだ. それまで中立的に見識豊かにものを言っていた人たちが, 数学の話題になると,自分にはわからないと仰け反ってみたり, 変な人が訳のわからないことを言っているぞと言わんばかりに, 茶化してみたりする. 悪意があるとは思えないが, 知らず知らずのうちに, そういう数学を拒否する態度が電波に乗って 日本中にばらまかれていく. ひょっとしたら, こういうことも, 数学離れを作っていく 1 つの原因になっているのかもしれない….

「まあ,いずれにせよ,日本に来た目的は達成したわけだね.」

「はい.でも,それは目的の 1 つです.」

「というと,他にも目的があったのかい?」

「はい.それは先生に出会うことです.」

「えー.私と出会うことが目的!」

 どうもドイモイ君の話し方は結論が先になる傾向があるようだ. 後で理屈がつくにしても, その結論は私を驚かせるものばかりである. ここはひとつ肝を据えて彼の話を聞くことにしよう. 何が出てきても,うろたえないぞ!

 ドイモイ君も私の中の混乱を察しているようだった.

「もちろん,先生と出会うまでは,先生が目的の人だとはわかりませんでしたよ.」

「それはそうだろう. しかし,なぜ,私が目的の人間なんだい.」

「はい.日本に行く前に父から言われたことは, 日本の第三の理の浸透の様子を知ることと, 日本にいる第三の理を宿した人間を探すことでした.」

「というと.」

「つまり,先生こそが私が探し求めていた第三の理を宿した人だったんです.」

「そんなぁ.でも,どうして私がそういう人間だとわかったんだい?」

「それは簡単でした. 先生の日頃のお話を聞いていれば,見当はつきます. でも,先生が『ハノイの塔が崩壊した』のメッセージをもらったという話を してくれたときに,すべてを確信しました. 第三の理との同化が進むと, 見掛け上は不条理なことが起こりだすんですよ.」

「なるほど.」

 とは言ったものの,それに納得したわけではない. なぜ,第三の理と同化すると不条理なことが起こるのだ? その理由はわからないにしても, 現象的には正しいようだが….

「確かにハノイ氏からの電子メールは不可解だったよね.」

「それよりも先生がここに来ていることの方がずっと不可解ですよ.」

「それはそうだ.パスポートも持たずに,ハノイまで来てしまうなんて, 普通なら不可能なことだからね.」

 ドイモイ君と私はお互いの目を見つめ合って,微笑んだ.


つづく

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negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/11/4]