第三の理/補足●
数学に関心が移り…

 私の関心が物理から数学に移り, 数学を専攻に至った経緯は, 数学セミナーの1987年の 5 月号の coffee break というコーナーで 『私はお茶の水博士になりたかった』と題する記事の中で 述べられている. 参考までにその記事を採録しておこう.

 そもそも『数学セミナー』には,数学とは直接関係のない各界の有名人に 数学に対する思いを書いてもらうという「tea time」というコーナーがある. それに対抗して,数学の関係者がその思いを語ろうと, 1987年の 5 月号から「coffee break」というコーナーが始まった. これはその第 1 回目の記事である.


coffee break
私はお茶の水博士になりたかった

根上生也


 私が小学生の頃, 一生懸命に見たテレビ番組に「鉄腕アトム」があった. それは 7 つの力を持つ 10 万馬力のロボットの「アトム」が 活躍するアニメである. 最近のアニメに登場するロボットは 強力な兵器を搭載した巨大なものばかりだが, アトムは黒いパンツに赤いブーツをはいた少年の姿をしていた.

 その行動もやけに人間的で泣いたり笑ったりする. 人間と違うところと言えば, 2 本の角がねじれの位置にあるような髪型と 足音がピッポッピッポッというくらいだった. だから,当時の子供たちはアトムの中に自分自身を投影して, アトムが悪者をやっつけるのを大喜びで見ていた. しかし,私は怪物を退治したり悪者に捕まった人を救出したりする スーパー・ヒーローのかっこいいアトムよりも, なぜか,わき役にすぎない「お茶の水博士」に 心惹かれていた. そして,「ぼくも,ああいう博士になるんだ」と 秘かに思っていた.

 知らない人のために述べておくと, お茶の水博士は人間とロボットが共存する 21 世紀の科学技術庁の長官である. いろいろな発明をしてアトムの悪者退治に力を貸したり, ときには,傷心するアトムを慰める父親の役割を果たしたりする. 鼻は顔と同じくらい大きい楕円形で, 頭ははげていて顔の左右に防寒用の耳当てのような白髪のふさふさがある.

 風貌はともあれ, 今の私は数学者だから, ロボットや宇宙船や不思議な機械を発明する科学者の お茶の水博士とは若干異なる職種に付いている. いまさら,夢を実現するために,一からやり直して 科学者の道を歩むというわけにもいかない. 子供のときの夢は夢のままにして,大事に仕舞っておくしかないだろう.

 実は,もともと私は現代物理学に興味を持ち, それを専攻する目的で大学受験をした. それにもかかわらず, 東京工業大学の 1 類(理学部)に入学して 1 年後, 教養課程を終了し所属学科を決定する段になって, 物理を捨て数学を専攻することにした. もし,そのまま物理を専攻していたら, 本当にお茶の水博士のような科学者になっていたかもしれないのに….

 思い返せば, 現代物理学が提示する不思議な世界との出会いは 『 4 次元の世界』と 『タイムマシンの話』という 2 冊のブルーバックスから始まった. あれは中学 3 年の夏のこと, 友達と 2 人でいわゆる「神田の古本屋街」に行くことになった. 当時は子供だけで電車に乗って遠くへ行くのは御法度だったが, 受験参考書を買いに行くという名目で親から許可をもらった. 青梅線から中央線に乗り継ぎ, 電車に 1 時間ほど揺られた末に私たちが到着したところは, もちろん「お茶の水駅」である.

 子供の頃から読書が嫌いだった私は文学書の山には見向きもしなかった. が,不思議な絵の書いてあるこの 2 冊の本には妙に惹かれ, 参考書選びはそっちのけになってしまった.

 家に帰りその本を読んでみると, そこには実に奇妙な世界が展開していた. それによると,空間は歪曲し,時間さえも縮んだり延びたりするという. そして,そういう不可思議な現象が起こる宇宙空間は 4 次元空間である ことを知った. これは鉄腕アトムのような空想の世界の物語ではない. 現実の世界の話なのだ. こんなとんでもないことを真剣に考え出してしまう科学者たちに 私は強い感動を覚えた. 「ひょっとしたら,福沢諭吉や野口英世よりもずっと偉いんじゃないかしら.」

 その 2 冊の本との出会いを皮切りに, 高校生になった私はこの手の本を読みあさった. そして, 4 次元宇宙を何とか見たいものだと思うようになった. 見るといっても本当に目で見るわけではないが, 何度も絵を書いて, その中に 3 本の座標軸と直交する第 4 の軸を直観しようと努力した.

 そうこうしているうちに, 受験を向かえることになる. 友人達は将来の職業を考えて大学選びをしているのに, そうでない自分に悩んだこともあった. が, 4 次元宇宙を見るという夢はいっこうに覚めようとしない. それで,数学が目に見えないものを見るための強力な武器になることに 気付かなかった私は, 「大学に行ったら相対論」というありがちなパターンにはまってしまった.

 ところが,大学 1 年のときに読んだ『空間の征服』という本のおかげで, 数学に転身するきっかけをつかんだのである. その本には宇宙は 3 次元多様体であると書いてあった. それは 3 本の座標軸がどこまでも延びているという 根拠のない古典的な宇宙観を捨てたところに誕生した数学的な概念だった.

 かつて「宇宙は丸い」という説を本で読んだことがあったが, そのときは円や球面の延長として丸い宇宙を捉えて 無理なく受け入れていた. それは所詮 4 次元空間の中でコンパスを使って描けるような図形だ. また,ねじれた空間やブラックホールも知識にはあったが, やはりユークリッド空間の中でたわんでいる曲面のようなものをイメージしていた.

  4 次元を見るぞと息巻いてみても, 自分の感性はギリシャ時代から踏襲されていたユークリッド幾何学の範疇を いっこうに抜け出していないではないか. そう思い知らされた私は大きなショックを受けた.

  3 次元多様体である宇宙は丸くないかもしれない. その丸くない宇宙とはいったいどんな形をしているのだろうか? その形を見るのは 4 次元宇宙を見るよりも 何十倍も難しそうだ. しかし,何百倍もおもしろそうだ.

 「よーし,宇宙の形を見てやるぞ!」

そう決意した私は, その手助けをしてくれるトポロジーを学ぶべく, 数学を専攻する意志を固めたのである.

  3 次元多様体の勉強を始めたのは大学院に進学してからだが, 宇宙の形を見るという私の夢は少しずつ叶っていった. 例えば,「宇宙の果てはトーラスである」という事実を学んだ. もちろん,その理由を問われると 数学を持ち出さなければならないが, 少なくとも私はこの命題自身に夢を感じることができる.

 ところで,先日,風邪が抜けずにしきりと鼻をかんでいると, それを見ていた「お茶の水女子大」の M さんが,

 「そんなに鼻をかんでいると,明日は鼻がもげてしまうか, 2 倍に腫れてしまうかですね.」

と言って笑っていた. 私が「 2 倍になる方がいい」と答えたのは言うまでもない. なぜかって? そりゃ….

 そういえば,「宇宙の形を見る」という夢もさることながら, 私はお茶の水博士になりたかったのだった. 子供の頃の夢だから明確な理由があるわけではないが, そのお茶の水博士像とは何だったのか?

 もちろん,お茶の水博士は科学技術庁長官である. それは科学技術と人間社会の調和を司る責任者である. また,博士はいろいろな発明や発見を通して 人類の夢を実現する一方, ロボットと人間のお互いの偏見や誤解を解消するためにも尽力していた.

 それを数学者の私がまねするならば, 私が数学に抱いている夢を披露して, 数式や論理を操るだけの無味乾燥な行為の繰り返しが数学だと思っている 人たちの誤解や偏見を解いていくことだろう.

 厳密性や抽象性ばかりを追求することが数学のすべてではない. 頭の中にある漠然とした思いを具象に昇格させていく喜びも数学にはある. もちろん,それを知るには数学を専門にしていないと難しいだろう. しかし,あなたを数学嫌いにしてしまった三角関数なんかわからなくても, 数学者が長年の研究の末に呟いたフレーズに耳を傾けると, ひょっとしたら彼らのささやかな夢が聞こえるかもしれないですよ.

 科学技術を知らなくともビデオや CD を使って楽しく生活できるように, 数学を知らない人にもそれなりのおもしろさを味わえるような定理を証明しつつ, 数学の先生は冷酷な悪人だという誤解を解消していけるような, 数学者としての「お茶の水博士」に私はなっていきたい.

 現在,学位を取って「博士」にはなっているが, この先どこまで「お茶の水博士」に近付けるか. その子供の頃の夢が実現するか否かは,私の努力如何に関わっている. 欲を言うならば,アトムのように世界中のみんなを 魅了する定理を証明できるといいんだがなあ….


 この「お茶の水博士」の記事について, たいへん思い出深いエピソードがあるので, それを記しておきたい.

 あるとき, 当時,東京理科大学の学部生だった石本君という 北海道出身の男の子と話す機会があった. 彼はその記事を読んで自分も数学を志そうと決意したという. そして,東京理科大学の数学科を受験した. 念願叶って上京した 彼が初めてやったことは, その記事に書いてあるように, お茶の水駅から神田の本屋街まで私がたどった道を歩くことだった. そして,私がそこで出会った 2 冊のブルーバックスを探したのだそうだ.

 その話を聞いて私はたいへんに嬉しかった. 自分が書いた文章が,若い人たちの心を動かし, 彼らの人生を決定づけていく. なんとすばらしいことなのだろう. もちろん,私の記事を読んだ若者がすべて私の考えをよしとするとは思わないが, 私の思いが読者の心の中に宿り,彼らを動かしていくのだ. 恐ろしいような気もするが, この事実をきちんとわきまえて,ものを書いていかなけらばならない.

 この出会いは私にとって非常に感動的なものだった. もちろん, その記事を書いた人間が自分の目の前にいることを知った石本君の感動は, それ以上だったようだ.

 石本君は,その後,北陸先端技術大学大学院に進学し, コンピュータ・サイエンティストとして活躍している.


negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/5/1]