学校教育おける教科とは何なのだろうか? 私は,教科は人間に備わっている能力に対応して存在すべきだと考えている. 例えば,保健体育なら人間の身体能力に対応しているし, 音楽や美術なら芸術を鑑賞したり創作したりする能力に対応しているだろう. 国語なら言葉を操る能力だし….
と考えていくと, 算数,数学とは人間のどういう能力に対応しているのか?
私は,その能力とは「構造を理解する能力」であると考える. 何でもない状態でなければ,そこには何らかの構造があり, 人間はそれを感知するだろう. また,自ら観点を設定して,その状態を観察しようとする. さらに,他の構造を想起して,それと同じかどうかと考える. (それぞれ「構造の感知」,「付加」,「同定」という.) こういう一連の行為を総称して「構造の理解」と呼び, 人間にはそれを遂行する能力が先天的に備わっているのだと考える.
では,その「構造」とは何なのか? そう問いたくなる人もいるだろう. しかし,そもそも「これこれの構造がある」という言い方をすべきものであって, 「構造」はそれ単独では定義不可能な言葉である.
いずれにせよ, 人間は構造を理解する能力を先天的に持っている. それを前提として数学教育を考えようと私は訴え続けている. もちろん,私が掲げる前提を科学的に実証することは難しいだろう. しかし, 先天的に持っている能力を伸ばすという発想は 無理のない教育を実現するポイントだと思う.
ところで, よく数学を勉強する目的は論理的な思考を身につけることだと言われる. 数学教育がそういう期待を背負っていることは間違いないが, はたして現行のカリキュラムでその目的が達成できているのだろうか?
例えば,論理的な思考を養うためには平面幾何が最適だと言い放つ人がいる. 確かに,平面幾何では公理が明確に定まっているから, 論理的な体系の見本としては最適だろう. しかし,現実の生活において, 公理が定まった状態から推論を始めることなどまずない. となれば,固定された公理系の中で論証を学ぶということに, どういうメリットがあるのだろうか?
要するに,どうやって公理に相当する事実を発見するかが重要なのである. そこで,登場するのが「構造の理解」だ. 人間が本来持っている能力によって認知される構造は,誰もが共通に認知する. したがって,その構造に伴う事実は万人が認めるものとなる. となれば,その事実が公理として使えるではないか.
こういう発想で論証指導をするには,離散数学が最適である. すでに述べたように, 離散数学とは,図と言葉で論証する数学である. 与えられた状況を図にして そこに表現されている構造を理解しよう. それを言葉で表現できれば,その事実が公理となる. それをもとに推論を行い,観測された現象を証明する….
本編で扱っている「ハノイの塔」の問題も このようなプロセスで解決されていく. そのポイントは,やはり, 構造を理解し,うまく言葉で表現するということである.