大学入試における総合問題の活用

 

横浜国立大学教育人間科学部助教授 根上生也

1. 教育人間科学部の新しい入試

 平成 9 年 10 月 1 日, 私が所属している横浜国立大学教育学部は 「教育人間科学部」として新しい道を歩むことになった. 近年の教員需要の激減に対応するために, どの大学の教育学部でも,教員養成課程の入学定員を適正化するべく, 学部改組が計画されている. 横浜国立大学では,すでに 10 年前に, いわゆる 0 免課程(教員免許を取得せずに卒業できる課程)が発足していたので, 今回の学部改組は,第 2 ラウンドともいうべき改革である.

 簡単に言うと, 教員になる学生の数が減るのだから, それに比例して,教員養成をする教官の数も減らせということになる. となると,教員養成の担当から外れた先生たちをどうするかという問題が出てくる. 幸いにも,私たちの学部には, 教員養成という枠を越えて活躍している先生方がたくさんいるので, その人材が活かせる新課程を作ろうということになった. しかし,余剰定員の処理という考えでは許されない. あくまで社会が必要とする新課程を発想する必要がある.

 こうして生まれた新課程が「地球環境課程」, 「マルチメディア文化課程」, 「国際共生社会課程」の 3 課程である. (学内では,学校教育課程と区別して,この 3 課程を「N 課程」と総称する. その N は“New”を意味するという説と私の名前の頭文字だとする説がある.)

 特に,私が担当するマルチメディア文化課程は, 文理融合を目指す新しいコンセプトの課程として計画された. 当課程を運営するために, 演劇作家・演出家として有名な唐十郎氏を教授として迎えたことは マスコミ等でご承知のことだろう. 氏で代表されるような芸術系の教官と, 数学,情報科学,認知科学の教官が手を組んで, マルチメディアが創出する文化とそれを支える人間を探求しようというのが, マルチメディア文化課程である.

 このような改革を進めていく上で, 新学部の特徴を出すために, 入試の在り方も刷新しようということになった. そうして導入されたのが「総合問題」である. 学校教育課程では「論文試験」を導入したが, どちらも特定の教科に限定されない問題を出題するという点では共通である.

 そもそも総合問題とは何のか? 普通, 入試問題は,英語,国語,数学などの教科ごとに 出題されるものと思われている. さらに, 文部省がそういう教科単位に分断された入試を強要しているのだと 思い込んでいる人もいるかもしれない. しかし,それは思い込みにすぎない. 実際,入試方法を公表する際の用語として 「総合問題」を用意しているのは文部省である.

 いずれにせよ, 総合問題による入試を実施している大学はまだ少数である. しかし, その数は年々増加しており, 無視できない数になりつつある. とはいえ,その出題形態は大学ごとにまちまちで, 総合問題を固定的なイメージで捉えないほうがよいだろう. したがって,以下で紹介する問題例は あくまで総合問題の一つの在り方だと解釈するのが妥当である.

2. どんな問題が出題されるのか?

 では,横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程では, どのような総合問題が出題されたのか? 多くの大学では,一連の資料を読ませ, それに基づいて質問をするという形式になっているようだが, 当マルチメディア文化課程の問題では, その資料に相当する部分がない. それは,一つのテーマに対して,いろいろな側面から考察し, 思いを巡らしていくという形で問題が展開していく.

 例えば, 平成 10 年度入試の「問題2」では,エッシャーの作品をテーマに問題が出題された. その作品は,互いに逆向きの白い鳥と黒い鳥が交互に並び, 平面全体を敷き詰めているというものである. そして, その絵を見て,その特徴を述べ, 身の回りにあるそれと類似するものを挙げよというのが,第1問だった.

 続くいくつかの問いでは, 白い鳥と黒い鳥の繰り返しの原理を理解した上で, 与えられたいくつかの点の座標からある鳥のくちばしの座標を求めたり, 1羽の鳥の面積を求めたりする. さらには,その平面敷き詰めの原理を利用して, 自分なりのタイルを描き,それに題名をつけてもらった.

 また,アンディ・ウォーホルが描いたキャンベル・スープの缶詰の絵や カノン形式の楽譜を与えて, それとエッシャーの作品との共通点と相違点を述べよという問題も出題された.

 前者は,いろいろな種類の味のスープの缶を写実的に描いたものを壁に敷き詰めた 作品である. エッシャーの作品と同様に繰り返しパターンだと思うこともできるが, どの缶も味が異なるスープなので, 厳密には同じものではない. また,エッシャーの方は 人工的に作られて幾何学的な雰囲気のする図形であるに対して, ウォーホルの方は日常的な具体物を描いている.

 楽譜の方は, 一つのモチーフが繰り返されながら, それが幾重にも重なり,厚みを帯びた音になっていくという特徴がある. 楽譜を読んでメロディを再現できなくても,音符の並びのパターンから, その繰り返しパターンは察しがつくはずである.

 この他にも,与えられた情報から論理的に推論する数理パズル的な「問題1」や コーヒーに関する文化的な問いとコーヒーの温度変化をシミュレートする問いからなる 「問題2」(学内では「コーヒー問題」と呼ばれている)が出題された. 問題1は受験者の度肝を抜いたようだが, 意外と正当率が高い. コーヒー問題の方は, 予備校などの資料の中で,融合度が乏しいと評価されているようである. 実は,個別教科に自信のある学生の出番も与えようという意図で, あえてそのような出題にしたのである.

 いずれの問題も,中学校までに習う知識は常識の範囲と判断し, センター入試程度の教科内容を習得していることを前提とした 出題になっている.

 例えば,アメリカのポップ・アーティストであるウォーホルは, 上述のキャンベル・スープの作品か, マリリン・モンローを描いた作品とともに中学校の美術の教科書に登場している. また,カノン形式という音楽用語を知らなくても, 楽譜に書かれているオタマジャクシのような図形が 音の高さと長さを表わしていることは常識だろう.

 また,エッシャーの作品の中の鳥の面積や座標を求める問題では, 正三角形の辺と高さの比が 2 : √3 になることや, 底辺×高さで平行四辺形の面積を求められることを知っている必要がある. これらを教科に依存した知識であると解釈せずに, 義務教育で習った日本人としての常識と判断したい.

 コーヒー問題では,数学IIで習う「数列」が扱われているが, 単なる数学の問題にとどまっているのではなく, 理論的にモデルを作って,現実の事象を解析する態度を問う問題になっている. しかし,これに着手している受験生はあまり多くはなかった.

 はたして,今年はどのような総合問題が出題されるのでしょうか? もちろん,それにはお答えできないが, 基本的には,同じスタイルの問題が出題されると思ってもらってかまわない. というのも, 毎年,出題傾向の変わる入試では, 受験生が目標を持って勉強することが困難になってしまうからである.

3. 期待される能力

 さて,このような総合問題によって, どのような能力が判定できるのだろうか? 上で述べた問題に対応させて考えると, 概ね,次のような能力が判定できると考えられる.

 本当にこのような能力の測定が可能かどうかは, 単なる期待であって, 実証的な事実ではない. しかし,このような能力の重要性は多くの人が認めるところだろう. また,そのいくつかは,通常の教科に対応する入試問題では 測定不可能のように思われる.

 その中でも, 「与えられたものの特徴や構造を抽出し,それを言明する力」が, 特に重要であると,私は考えている. というのは, そこからすべてが始まると言っても過言ではないからである.

 例えば,数学や理科の問題を作成する際には, 解決すべき問題が一義的に定まるように注意を払い, それに必要となる条件を明確に記述するように努める. しかし,現実の社会で遭遇する場面では, 誰かが条件を設定してくれるわけではない. 自分でその条件を発見し, 直面している事態のモデルを作るところから 始めなければならない.

 エッシャー問題の第 1 問では, 単にエッシャーの作品を見たときに, 合同な白い鳥と黒い鳥が交互に並んでいるという事実に気づくことが重要だった. その繰り返しの構造は誰の目にも映っているが, それに注目するかどうかは別の話である. その構造を(声には出さないにしても) 言葉で言明する態度があるかどうかで, その後の問題解決の効率がまるで違う.

 いずれにせよ, 総合問題は単なる知識量を問う問題ではない. 仮に,教科に対する知識が乏しかったとしても, それなりに対処できる問題である.

 上に掲げた能力は, いずれも,特定の教科を学習することで修得できるというものではなく, 人間にそもそも備わっている能力のようにも思える. しかし,教科に執着した学習は, その能力を使う機会を奪い, その結果として, それを使う術を忘れた子供たちを量産しているのではないだろうか.

 と,述べてはみたものの, 私は,本当は,受験生たちにもっと素朴な能力を期待している. エッシャー問題のように, 変な絵を見て,数学あり,美術あり,音楽あり,国語のようでもあり, さらには,自分で何かをデザインしたりと, 1つのテーマをいろいろな方角から眺め, いろいろな事柄に思いを巡らして, いろいろな方向にアイディアを展開していく. その行為をおもしろいと思える能力. それが私が期待する能力である.

 さらに欲を言えば, 知識をきれいに整理して,いくつかの引き出しに納める能力よりも, 引き出しにしまってある知識をテーブルの上に全部ぶちまけて, それを使ったおもしろい遊びを自分で見つけられる能力を期待したい.

4. 総合問題の得点分布

 さて, 期待ばかりを書き連ねてもしかたがないので, より客観的な事実として, 得点分布について述べておこう. もちろん,単年度の調査結果であるから, 以下で述べることは, 単発的な現象なのかもしれないが, 出題者の期待に沿った結果になっている. (なお,入試に関するデータなので, 具体的な数値の公表は差し控えておきます.)

 まず,この総合問題の得点分布の大きな特徴は, 二山分布になることである. 高得点と低得点の双方に同程度の高さの山ができ, それぞれがよく見る正規分布のような形になっている. そのような形が現れるのは, 5 点から 15 点程度が配点された小問をたくさん用意したからだろう.

 幸いにも,両者の山を分ける谷間の得点が, 合格のボーダーラインになった. (これは偶然かもしれない.) つまり,受験生は, 教科を越えて知識を融合する態度のないグループと それを受け入れることができるグループに二分できるということである.

 また,うれしいことに, 二次試験で実施した総合問題の得点と センター入試の得点との間の相関が低かった. つまり,センター入試の成績がよい者の中にも, 総合問題が不得意な者がおり, 逆に,センター入試的な問題は苦手でも, 総合問題で能力を発揮できる者もいたことになる. 実際,センター入試の得点のみによる順位が逆転して 合格になった者も少なくない. これで,センター入試に加えて二次試験を実施することに 意味があると言えるだろう.

 とはいえ, センター入試と二次試験の配点はそれぞれ 800 : 300 だったので, センター入試の得点が極度に悪い学生は, この試験で合格することはできない. センター入試は教科に縛られた分断的な知識を問うだけだと 批判されがちだが, 大学生になるつもりがあるのなら, センター入試程度の勉強はしておいてねというわけである.

 したがって, センター入試と総合問題を組にした入試を実施すると, 高校生としての標準的な教科の知識を有した者の中から, 総合的な態度で問題に対処できる学生を抽出できることになる.

 さらに,合格者の山の得点分布と彼らが解答した問題との相関を 調べてみると, 数学的な問題に正解した者が 上位を占めていることがわかった. より正確には, 数学的な問題に着手するか,しないかが得点の分かれ目になるようである.

 例えば,中学校のときに, 1 : 2 : √3 というフレーズを習った者なら, 正三角形に関わる問題の 答えには √3 が含まれてもよさそうだと思ってしかるべきだろう. しかし,平然と整数値の答えを書いている者が少なくない. そのような解答になるのは, きちんと数学的に考えていないからである. つまり,単なる計算ミスなのではなく,まじめに着手していないのである.

 ところで, 世の中には, 日常生活で 2 次方程式を解くことなどないからと 2 次方程式の重要性を公然と否定する人もいるくらいだから, 数学的な処理ができる受験生の方が高得点をとるという事実を踏まえて, 総合問題は不公平だと判断をする人がいるかもしれない.

 しかし,その判断は悲しい. 言うまでもないが, 正しい理解は,総合的な問題を解決するためには, 数学的な能力が重要だということである.

5. 問題を作る過程で

 やはり入試に関することなので, 入試問題の作成過程について具体的なことは述べられないが, マルチメディア文化課程の総合問題を作る際に感じたことを, 総合学習の観点から述べておきたい.

 よくこのような総合問題を作ることは大変で, 継続が困難だという発言を耳にする. そういう発言の前提には, 「自分が総合問題を作るとしたら」という前提があるように 思えてならない. 総合問題を推奨する私でさえ, もし自分一人で作問しなければならないとなると, 総合問題による入試に対して消極的にならざるをえないだろう.

 要するに, 総合問題の作問を担当する教官どうしが, いかに連携するかがポイントである. その際,一個人の中にあるイメージに執着しないことが重要である.

 例えば, エッシャー問題を作る際に,私は非常におもしろい経験をした.

 数学を学んだ者にとって, エッシャーの平面敷き詰めの作品が, 平面上の変換群と密接に関係していることは周知の事実である. 仮に,エッシャーがコクセターなどの数学者と知り合いだった という事実を知らなくても, エッシャーの作品を見れば, その関係を見抜くことは容易である. そして,誰でも, 合同な図形が平行移動によって無数に配置されているという 構造を指摘できると考える.

 ところが, そのエッシャーの作品は, 芸術系もしくは文系の先生方の頭の中には, まったく別のものとして納められていた. それは「地と図の区別できない絵」というものだった. その「地」とは背景のことで, 背景であるべき部分が「図」になっているおかしな絵だというわけである. 確かに,エッシャーの作品は, 白い鳥に対して背景であるべき部分が黒い鳥になっているから, 地と図の区別がない絵になっている. したがって, それは, ゲシュタルト心理学の例としてよく引用される, 向かい合う人の顔にも花瓶にも見える絵と 同族だというのである.

 文系流の理解もうなずけるが, 数学者にとって,向かい合う人の顔の絵とエッシャーの絵を同族とする 発想は意外だった. 逆に, 合同な図形が平行移動したものという指摘に, 文系の先生方は驚いていた.

 この例だけから断定的には言い難いが, どうやら文系の先生方の頭の中には, 「これはこういうもの」と分類された知識が ぎっしりと詰まっているように思われる. その知識の幅は実に広く,驚かされるばかりであるが, 悪口的に言うと,定説を暗証しているようにも映る.

 例えば,ウォーホルの缶詰の作品は, 機械文明が生み出す反復を象徴していて, 見ていて気分が悪くなるのだそうだ. そういう知識のない私は, 機械が発達したおかげで, いろいろな味のスープが量産できて, みんなが喜んでいるところが想像できると言ったりする. ただし,私が実際にそう思っているのではなく, そういうアイディアを創出できるのだと解釈してほしい.

 この状況を比喩的に言うと, 文系の先生方はハードディスクで, 数学系の先生たちはCPUで勝負すると言えなくもない. 文系の人たちから見れば, 私を含めた数学系の先生たちは,まったくの無知に見えるに違いない. しかし,私たちには,知識量を凌駕する処理速度を有していると自負している.

 こういう感性の対立に決着をつけるために, 二者択一の闘争をするのではなく, その両者を受け入れ, 双方の発想の違いをおもしろがるという態度が, 総合問題を作る上で極めて重要である. つまり,コンピュータにはハードディスクもCPUも必要なのである.

 この認識に立つと, 急に見晴らしがよくなってくる. 文系 vs 理系という対立構造に執着するよりも, 相手の特性を利用して,自分のアイディアを発展させられる ことに力を注ぐ. その方がずっとおもしろいし, その成果として,融合度の高い総合問題が作れるのである.

 この精神は, まさに,総合学習に通じるものだろう.

6. 総合問題における数学

 多少,大見得を切ったついでに,自分が専門とする数学と 総合問題の関係を述べておきたい.

 学部改革の一環として, 総合問題入試を実施しているわけであるが, もっと数学の教科内容を出題すべきだという 意見の人が学内にいないわけではない. しかし,数学の先生の中には, 自分の意見とは異なるにしても, 目的達成のためには, それとは別の次元で行動できる人が多い. (そういうことができない先生が多い分野もあるが, 明言するのは避けておく.)

 そのおかげで, 数学のレベルはセンター入試の数学II程度までというルールを厳守して, 総合問題を作問してもらえる. 逆に,数学の入試問題作成に着手したことのない (当たり前のことだが)文系の先生方の方が, 高度な数学を要求することがしばしばである.

 すでに述べたように, 文系の先生方は非常に博学であるから, 理系的な分野に関してもいろいろとご存知である. そのため,自然や社会における おもしろい現象を作問の素材として提案してくれることが多い. しかし,そのほとんどが, 上で述べたレベルを越えた数学を使わないと解析不可能なのである.

 例えば,大半の現象を解析するためには, 指数関数の微積分が必要であるが, それは数学IIIに属している. つまり,世の中で実際に起こっている問題に対処しようとすると, 高校 2 年生までの数学では不十分なのである. それにも関わらず, 数学嫌いや理系離れを助長し, 数学を廃したところで世の中を考えようとする風潮には 困ったものである. (良識ある知識人ならば, このような風潮には加担しないと思うのだが.)

 いずれにせよ, 高級な数学は使わないという前提で作問しなければならないので, 思い切って,高校数学に執着せずに, 中学校までに習った数学を活用することを考えた. その結果として誕生したのが, エッシャー問題の座標や面積などの問題である.

 すでに述べたように,そういう数学的な問題に正解しない者の得点は低い. その解答を見ると,中学校までの数学が見事に定着していないことがわかる. そういう生徒たちに高校数学を積み上げようとしても, 徒労に終わってしまって当然である. 数学ができる者にとって, 中学校までで習う数学は極めて自然なことを定式化しているにすぎない. しかし, その自然さを理解できなかった者は,単に公式を暗記しているだけだから, 時間が経つとそれを忘れてしまう.

 この定着の悪さは,ひょっとしたら, 数学が数学だけで閉じていることに起因しているのではないだろうか. 例えば,因数分解を習った結果, それを使って何かが解決できるようになればよいのだが, できるようになるのは因数分解の問題でしかない. これでいいのであろうか?

 新しい知識や技能を身につけた結果, それまでに解決しようとしてもできなかった問題が 解決できるようになるという構図が実現しないと, ありがたみが生まれない. 今までに見たこともない因数分解という概念を教わって, それができるようになっても, 何がうれしいのだろうか? (あくまで,比喩として述べているのであって, 因数分解が重要でないと言っているのではない. その重要性は本稿の目的ではないので,解説しないだけである.)

 自分が修得したことと,それを適用する場面が区別されていれば, その両者をつなごうとする動きが発生する. さらに,使おうとする知識や技能の原理がわかっていなければ, それがその場面に適用可能かどうかが判断できないだろう. したがって,数学に限らず, このような構図を演出することで, 個別教科の基礎・基本の定着がはかれるのではないだろうか.

 しかし,数学の技能を定着させるためには, 数学を教科としてしっかり指導すべきだという意見が多い. 私もそれには賛成であるが, それに加えて, 上で述べた構図を実現するために, いわゆる総合的な学習の時間を活用すべきだと考える. それは数学の定着のためばかりか, 総合学習の幅を広げることにもつながるだろう.

 例えば,高校でそれを実践する際には, 中学校+α程度の数学で記述し, 解析できる題材を選ぶとよいと考える. マルチメディア文化課程の文系の先生方の行動が示唆しているように, より高度な数学を利用すれば, より現実に近い総合問題を扱えるようになるが, それは大学が担当すべき事柄だろう.

7. 高校生へのメッセージ

 さて, 以上で述べたようなマルチメディア文化課程の総合問題に対して, みなさんはどのような感想を持つだろうか?

 めでたくその入試に合格して マルチメディア文化課程に入学した学生たちに 感想を聞いてみると, 概ね好感触である. もちろん, 論理パズルやお絵描きをさせる 風変わりな問題に驚いたという学生が多い. また, センター試験で失敗した, もしくは,あまり勉強しなかったが, 解答できてよかったという声も大きい.

 そもそも,総合問題による入試の導入は, 学部改革に色をつけるために,多少の新奇性をねらったという面もある. しかし,学部改革というチャンスを逃すと, 入試制度を改革することは不可能だろうという判断もあった.

 世の中には, すべての教育の歪みは,大学入試に起因していると言う人が多い. 諸悪の根元である大学入試を廃止すべしという人もいるが, 入学定員が定められているかぎり, それを上回る数の入学希望者を切り捨てるためには, 何らかの作業が必要である. また,大学受験が高校生の勉強の動機づけになっていることも否定できない.

 となれば,単純に大学入試を否定するのではなく, その在り方を変容させていくしかないだろう. そして,その変容の鍵を握るのは, 入試問題を作成する立場にある私たち大学の教員である. 私たちが従来と異なる入試問題を作れば, それに対応して,高校生の勉強のスタイルも変わっていく.

 これは学部改革の趣旨に盛り込まれていることではなく, 私個人の総合問題導入に対する意味付けである. つまり, 大学生になりたければ, センター入試程度の勉強はしておきなさい. あとは自分の興味があることを一生懸命やって, 頭を柔らかくしておきなさい. 無理に受験勉強をする必要はないよ. そういうメッセージを高校生に向けて発信できるような入試を実現したい.

 こういう意気込みを述べると, 入試である以上,予備校がすぐに分析をして, マニュアル的な方法を指導してしまうと言ってくる人がいる. しかし,それならそれでよいではないか. 総合的な問題に対処できる受験生になるということは, 単に教科ごとに分断された知識を持っている受験生に比べたら, 数十倍も理想に近い. 予備校のおかげで,そういう学生が増えるのであれば, 願ったり叶ったりである.

 いずれにせよ, 高校生諸君がマルチメディア文化課程に入りたいと思ってくれないかぎり, 勉強のスタイルを切り替えてはくれないだろう.

 その当時は,小中高に総合学習が導入されることが話題になっていなかったが, 結果的に,私たちの意図した総合問題は, 総合学習に対応する入試問題と言えるものになった. また,マルチメディア文化課程をはじめとするN課程のカリキュラムには, ワークショップと呼ばれる総合学習的な授業がある. つまり,今思えば,私たちの学部改革構想は, 今回改定される学習指導要領の先を行くものになっていたのである.

 その教育理念は

であり, これはまさに総合学習の理念と符合する.

 特に,知識のネットワーク技法は, 他者の持っている知識と自分の知識をうまくリンクし, 知識のネットワークを作って, 個人では解決不可能な問題を解決しようというものである. それは,私たちが総合問題を作問しているときに行ったことであり, 個別教科に限定されない総合学習を実現しようとするときにも 必要な考え方である.

 高校生たちが, こういう理念を掲げる大学に進学を希望し, 勉強のスタイルを総合問題対応に切り替えようと思うかどうかは, 高校以下の総合学習の成功に大きく依存するだろう. 高校生たちが総合学習のおもしろさや重要性を感じてくれれば, 総合問題を出題する大学の人気も上がってくるだろうし, 逆に,総合問題による入試のよさが定着していけば, 高校でも総合学習が歓迎されるだろう.

 いずれにせよ, 私たち大学側の人間がなすべきことは, 高校生たちにとって魅力のある大学作りをすることである. そして,その決意を入試問題に乗せて発信していくことである.

以上

●追記

第1問
「繰り返し」,「敷き詰め」が基本となっている事象が書かれていればOK. 「コナカのCM」という解答があったが,採点の担当者がそれを知らず,尋ねられた. もちろん,これも正解である.

正三角形
大学に進学しようという者なら,中学校のときには,それなりの成績をとっていたはずです. つまり,中学校のときなら,1辺の長さから正三角形の面積をちゃんと求められたはずだ. それにもかかわらず,誤答をするというのはどういうことなのか!  数学が不得意なのは責めるべきことではないが, 「自分は文系だから」と宣言して数学的思考を放棄してしまっている人間は, 自らを恥じよ!

定式化
最近,ある社会科学系の先生に「数学は極めて人工的ですね」と言われた. この発言は,その先生に限らず,多くの人たちの数学観を表しているように思う. しかし,多くの人がそう思うことと,それが真実だということは別物である. 数式を使った表現は人工的であるが,表現されている内容は極めて自然な事柄です. その自然さを感じ取れなければ,数学などつまらなくなって当然である. 確かに,数学の先生がその「自然さ」を教えてくれているかどうかは怪しいが….

高校
高校に入ると,高校で習う数学で記述できる事象ばかりを扱うことになる. その結果として,中学校までで習った数学を使う機会が失われているようだ. 大人たちも,微分方程式を通して世の中を見ようとするばかりで, 中学校レベルの数学を使わない. でも,世界を冷静に観察すると,中学校数学で記述できる事象が随所にあることに気づく. その具体的な内容は,今後のマルチメディア文化過程の入試問題の中で紹介することになるだろう. いずれにせよ, 中学校数学+αの数学で解析できる現象に目を向けて, 2003年から実施される新指導要領に登場する「数学基礎」に対処すべし.

予備校
私たちが力を注いで作成した入試問題にたかって金儲けをしている人たちがいる. 人気講師になると,かなりの高収入だし,ねたましいかぎりだ. この構図を破壊するにはどうしたらよいか. 本気でそう思っているわけではないが, 総合問題は予備校にそれなりのインパクトを与えたと思う. 予備校は従来型の入試に対応するために, 各教科の専門家たちが講師を務めている. はたして,総合問題担当の講師というのがあるのだろうか? 総合問題を前にして,予備校が対処に困っているとしたら,いい気味…. 実際,いわゆる「赤本」には,マルチメディア文化課程の問題は載っているが, その解答が示されていない.


negami@edhs.ynu.ac.jp [2000/2/27]