人間に宿る数理的原理


●はじめに

 「数学」なんて聞くと吐き気がする. 顔を背けたい. そういう人も少なくないだろう. 高校生の4割強が大学に入学する現在, 単純にその半分が理系だと見積もると, 大学に入ってまで数学を勉強している人は, 同世代の2割にも及ばない. つまり, 「数学」なんて一部の専門家だけに必要なもので, 大多数の人間にとってはどうでもよいものだ. ある女流作家がおっしゃったように, 二次方程式の解の公式を覚えたところで, 何の役にも立たないし. ましてや, 「人間」を考察する上で重要なこととも思えない. そもそも「数学」なんて, 非人間的なものの代名詞ではないか….

 多くの人にとって, 「数学」とは, 自分に心的苦痛を与えた教科の名称であり, できることなら避けて通りたいものでしかない. いくら数学愛好家が数学の楽しさを語ろうとも, そういう個々人の心理が解消できるとも思えない. しかし, 学校数学に対する印象だけですべてを理解したつもりになって, 数学に関わるものの一切を封印してしまうと, 世界を半分も見ないことになってしまいますよ.

 こうした通俗的な思い込みを避けるには, 「数学」という言葉を使わずに, 表題にあるように「数理的原理」と言った方がよいかもしれない. しかし, 「数学」の復権ももくろんで, しばらくは「数学」で押し通すことにする. そして, 人間性と乖離するどころか, 人間と不可分に存在する数学について考察していく. はたして, 「数学」が人間にとって必要なものなのか, 不必要なものなのか. 最後まで読んでから判断すべし.


●指折り数えて

 唐突ではあるが, 自分の左手を見てほしい. そして, 左手で7を数えよう. 次に, 右手で8を数えよう. ただし, 日本流に数を数えること. このルールを守っていれば, 左手で立っている指は2本, 折っている指は3本である. 右手の指は3本が立っていて, 2本が折られている. その状態のまま, 両手を合わせて, じっくり眺めてみよう. さて, 何がわかるだろうか?

 立っている指は左右合わせて5本. この5をひとまず覚えておいて, 折っている指に注目すると, 3と2. これを3×2 = 6と解釈して, 覚えておいた5といっしょに並べると, 56. これは7×8の答えと一致しているではないか.

 これは偶然の一致なのだろうか? いや, 偶然の一致ではない. 嘘だと思うのなら, 他の数で試してみるとよい. ただし, 5よりも大きい数の計算でないと意味がない. その理由は, 3×2と7×8の指の状態が同じになることを考えれば, 明らかだろう.

 ひょっとすると, 6×6の計算を試みて, うまくいかないと思い込んでいる人がいるかもしれない. 確かに, 立っている指が2本で, 折っている指は4×4 = 16. この2つの数を並べて, 216としても正解ではない. この場合には, 2を20と解釈して, 20 + 16 = 36と思えば, 6×6の答えと一致する. もちろん, この解釈は初めの例でも成立する. なぜなら, 56 = 50 + 6だからである.

 これで, 5の段まで覚えていれば, 九九のすべてを知らなくても, 10進1桁までの掛け算が手を使って計算できることになった. 子供だましのようだが, この計算方法はなかなかおもしろい. きっと, 九九を知っている子供たちに教えてあげると大喜びするだろう. いや, 子供にかぎらず, あなた自身もこの計算方法をおもしろいと思ったはずだ.


●インドに伝わる速算術

 話変わって, 今度はインドに伝わる速算術を紹介しよう. それは, 大きな数の計算を瞬時にやってしまう方法である. 図1のダイヤグラムを見てほしい.

図1 速算術ダイヤグラム

 このダイヤグラムを使って, 97×88を計算してみよう. その答えは8536で, すでに右下の箱の中に書かれている. その値を得るには, まず右の列の97と88と書かれている箱からスタートして, 破線の矢印をたどっていく. その矢印の先には, それぞれの100に対する補数(100からその数を引いた値)が書かれている. その値は3と12なので, 3×12 = 36を暗算で計算して, その答えを下の箱に書いておこう. 続いて, 3 + 12 = 15を暗算で計算して, その答えを左の箱に書こう. 最後に, 15の100に対する補数を破線の矢印の先に書く. ここで, 下に並ぶ2つの箱をよく見ると, 8536となっており, 97×88の答えになっている.

 あーら不思議. でも, これも偶然の一致ではない. ここではその理由を述べないが, このダイヤグラムがあれば, 100に近い2つの数の掛け算が暗算でできることになる. さらに, 1000に近い数の掛け算でも, 10000に近い数の掛け算でもOK. もちろん, 1桁の数でもOK. 試しに, 7×8をこのダイヤグラムを使って計算してみるとよい. 賢明な諸君なら, それが指を使った計算と同じであることに気づくはずである.

 実は, 上で述べた計算方法は, 古代インドの聖典として有名な4大ヴェーダの1つである『アタルヴァ・ヴェーダ』の中の「ニキラ・スートラ」に書かれているものである. 実際は, サンスクリットで呪文のようなものが書かれているだけで, 図1のようなダイヤグラムなどは描かれていないが, 伝承されている内容を図式化すると, 上のようになるのである. 詳しくは, 文献[1]を参照せよ.

 この方法もそれなりにおもしろいのだが, そのしくみがわからないところが歯がゆい. どういう原理で目的の計算が実現されているのかを知りたいという衝動にかられている人もいるだろう. その秘密は次で解き明かされる.


●数式の展開の利用

 今度は, 中学校で習ったことの復習. 次の等式を確認してほしい. 単に左辺を展開して, xを含む項をまとめて, xを1つくくり出しただけである.

(x - a)(x - b) = x2 - (a + b) x + ab = (x - (a + b)) x + ab

 では, この式をじっくりと見て何がわかるだろうか? もちろん, ここまでの話と関連があることは言うまでもない.

 例えば, xに10を代入してみよう. そして, aを左手の折っている指の本数, bを右手の折っている指の本数だと思う. 7×8を計算するとして, a = 3, b = 2だと思うと, 左辺は7×8そのものである. 一方, 最後の式の括弧の中身は 10 - (3 + 2) = 5となり, 立っている指の総数になっている. それにx = 10が掛けられて50が作られ, されにab = 3×2 = 6が足されて, 56になっている. この計算のしくみがわかれば, 指折り計算が偶然の一致によるものではないことがわかるはずだ.

 インドの速算術の原理も, この等式を用いて理解することができる. つまり, xに100を代入すればよいのである. 97×88の計算をするのなら, やはり, a = 3, b = 2である.

 ところで, 数式が登場した時点で, 思考停止してしまった人がいるのではないか. 大学生たるもの, この程度の数式が理解できないとは思えないが, 長年の数学拒否の態度が条件反射となって, 思考停止を誘発している. それならそれでかまわないから, ここまでの話を振り返って, 指折り計算, インドの速算術, 数式の展開という3つの話題を, 自分がどのように受け止めてきたのかを思い起こしてほしい.


●具象から形式へ

 簡単に言うと, この3つの話題は, 具体的なものから形式的なものへと姿を変えていった. しかし, その変化は見掛け上のものである. その計算の原理はすべてに共通で, 変化していない. 原理的には同じことをやっているのに, 見掛けの違いに左右されて, それを受け止める人間の態度も変わってしまう. これはどうしてだろうか?

 もちろん, 指折り計算は子供だって理解できる. といっても, あくまで現象的な理解であって, その原理を理解しているわけではない. 原理の理解がなくても, 現象はわかる. だって, やればそうなるんだもん. つまり, 指折り計算を実現している原理は, それを受け止める人間とは独立に存在しているのである. 九九を実行している部分には目をつぶることにすると, 指折り計算の原理は, 物理的な指の屈伸という現象とともに存在している. そのため, 原理を理解していない人間でも, 正しく計算ができることになる. そこで, この状況を「原理は人間の外に存在する」ということにしよう.

 一方, インドの速算術として紹介した方法は, ダイヤグラムの使い方を理解していないと, 正しくは実行できない. 仮に, 計算の原理がわかっていなかったとしても, それぞれの箱に何を入力していけばよいのかという理解があれば, 2つの数の計算が実行できる. したがって, この状況でも, 原理は人の外に存在している. しかし, ダイヤグラムという「形式」に「意味」を添えて運用しないと, その原理に従う現象を表面化させることができない. その意味が理解できないと, 計算ができないのだから, その「意味」は人間の外に存在しているのではなく, 人間とともに存在していると言ってもよいだろう.

 また, ダイヤグラムという形式が指折り計算という具体的な現象を表現していることもわかる. その結果, 原理は未知のままだとしても, 両者が同じ原理に司られているという事実は理解できる.

 ところが, 最後の数式の展開を利用した話になると, そのすべてが形式的でわからないと思った人もいるだろう. しかし, それは数式という形式に目を奪われているからである. 一方, 数式という形式に意味を与え, 指折り計算や速算術との対応をつけることができた人には, すべてが理解できる. つまり, 形式的だからわからないのではなく, 形式以外の部分に目を向けないと, 理解できないのである.


●原理はどこにあるのか

 では, 最後の例では, 原理はどこに存在しているのだろうか? もし, それが人間の外に存在しているのだとしたら, 数式に意味を与えるだけで, 計算が正しく実行できることになる. それはある意味では正しい. なぜなら, x = 10, a = 3, b = 2を代入すれば, 最後の式には, 自ずと7×8の答えに相当する数字が並ぶからである. しかし, この例では, 計算が正しく実行できるかどうかが問題なのではない. 指折り計算と速算術に共通する原理が何なのかを理解することが問題になっているのである. その理解は人間の内なるもので, 人間の外で起こるべき現象ではない. となれば, 理解されるべき原理も, 人間の内部に存在していると言ってもよいのではないか.

 もちろん, 「原理」という概念的な存在に対して, 物理的な位置を問うことは意味がないだろう. しかし, その原理が発動し, もしくは現象という形で表面化する場所をイメージして, 人間とともに存在するのか, 独立に存在するのかと問うことは, それなりの観点を与えてくれる.

 確かに, 「意味」は人間とともに存在している. なぜなら, 「意味」とは, 人間が人間の意図に沿って「形式」に付与したものだからである. その証拠に, 「人間」が変われば, 「形式」は共通でも, 「意味」は変わってしまう. 実際, 上で示した数式という形式は, ある者にとっては, 指折り計算やインドの速算術のしくみを意味しているが, また, ある者にとっては, 思考停止を促すうっとうしいものという意味しかない.

 一方, 「原理」は本来人間とは独立に存在しているものである. 実際, 数式の展開に潜む原理も, 指の屈伸や速算術のダイヤグラムに潜在している原理も, すべて共通のものであった. そして, 原理が発動される場所をイメージして, 原理が人間の外にある, 中にあると表現していた. 人間とは独立に存在していればこそ, それは随所で発動されるのである.

 まあ, 言ってみれば, 原理が人間の外にある, 中にあるというのは, その原理を人間が無視しているか, 無視していないかということである. 指折り計算やインドの速算術では, その原理を無視しても, 正しく計算ができた. 一方, その原理を意識できないと, 数式の展開の話は意味をなさない.

 「原理」を無視せずに, 「形式」に「意味」を付与することができれば, 形式だけで構成された世界の中でも, 具象の世界で展開するのと同じ現象を発現させることができる. となれば, 原理が人間とは独立に存在するとしても, 人間は大きな鍵を握っている. 人間がその原理に関与することで, 世界の大きさを変化させることができるのである. 無視せずに関与すれば, 具体的な物の世界に形式的な世界が加わり, 世界は2倍になる.

 少々乱暴な議論ではあるが, 無視する・しないと表現することによって, 原理は人間の恣意的な行動の対象になってしまった. さらに, 「その原理こそが数学なのだ!」と主張しようものなら, さらに恣意的な理解を誘発するかもしれない.

 いずれにせよ, まだ「人間に宿る」には到達していない. すでに述べたように, 「数理的原理」=「数学的原理」である. それが「宿る」ということは, 無視しようとしまいと, 人間の中にあるということである. つまり, いやでも, 決して数学から逃れられないのである. あな, おそろしや.

 ちなみに, 数学に悪印象を持っている人は, 自分の陳述に現れる「数学」をすべて「学校数学」に置き換えてみるとよい. それで辻褄が合うなら, あなたは世界を半分しか見ていない. 同様に, 上の記述の中の「数学」を「学校数学」に置き換えてみよ. 「人間に宿る学校数学的原理」という表現がナンセンスであることは言うまでもない.


●論理的思考の2つの落とし穴

 さて, 学校数学を超えたところで, 数学をイメージせよと言われても, 何もイメージできなくてもおかしなことではない. 普通の人が学校以外で数学という学問に出会うことは極めて稀だからである. しかし, 「なぜ, 数学を学ぶのか?」と尋ねられると, 「論理的な思考ができるようになるため」と答える人は多い. 現行の学校数学がこの期待に本当に応えられるものかどうかは怪しいが, 幾何の論証や等式, 不等式の証明などを通して, 論理的な思考が訓練されるとよく言われている.

 いずれにせよ, 論理的思考はある意味で理想的な思考方法だと思われがちだが, そこには大きな落とし穴が開いているのである. もちろん, 論理的思考とは, 筋道を立てて考えることだから, 決して悪いことではない. しかし, それを絶対視することが危険なのだ.

 とはいえ, 人類がその危険性に気づいたのは, 20世紀初頭のことだった. それは「連続体仮説」と「ゲーデルの不完全性定理」とともに数学界に巻き起こったセンセーションに端を発する. その連続体仮説とのは, 「自然数全体よりも多いが, 実数全体よりも少ない数の集まりは存在しない. 」 という命題である. この命題の具体的な意味はともかくとして, 現代数学の基礎をなす集合論が整備されていく過程で, この命題の真偽が問題になっていた.

 この問題に対して, 初めて答えを出したのは, 「不完全性定理」で有名なゲーデル(1906―1978)である. 彼は, 1938年に, 集合論の公理系が矛盾を含まなければ, それに連続体仮説を公理として追加しても, やはり無矛盾な公理系となることを証明した. 簡単に言うと, 連続体仮説を正しいと信じても, 何の不都合もないということである. ということは, 連続体仮説は正しいのだろうか?

 さらに, 1963年に, コーエン(1934―)が, 集合論の公理系の中では連続体仮説が正しいことは証明不可能であることを証明した. 正しいことが証明できない以上, 連続体仮説は正しくないと信じたところで, やはり何の問題もないということになる. しかし, これは, ゲーデルが示したことの逆ではないか!

 どういうことなのだろうか? これは, 数学の世界といえども, 白黒がはっきりしないことがあるのだと解釈できなくもない. 要するに, いくら議論を尽くしても, 証明も否定もできない命題が存在し, その命題を信じても, その否定を信じても何の矛盾も生じないということである. もちろん, 両方を同時に信じることはできないが, どちらを信じても矛盾のない世界観が構築できるということである.

 比喩的に言うと, 神様の存在を信じる人も, 信じない人もそれなりに矛盾なく一貫した考え方で人生を送れるということである. もちろん, 両者がぶつかれば, 言い分は食い違う. だからといって, どちらかが間違っているとは言い切れないということである.

 これが第一の落とし穴である. 自分が論理的に考えて下した結論と食い違うことを言う人は間違った考え方をしている. そう思っている人も少なくないだろう. しかし, 「連続体仮説」のエピソードは, それが身勝手な思い込みである可能性を示唆している.

 一方, 「ゲーデルの不完全性定理」は, 「どんな公理系に対しても, その公理系では証明不可能な真の命題が存在する」というものである. 本当は, 「どんな」の部分に多少の制限があるのだが, ここではその詳細には触れない. 簡単に言えば, 不完全性定理は, 常識的な知識に基づいて論理的に思考を巡らしても, 絶対に到達不可能な真理があるということを示している. 標語的に言えば, 「論理的思考には限界がある」ということだ. 論理的に考えていけば何でもわかるという思いは間違っている. これが第二の落とし穴である.

 互いに矛盾するにも関わらず, ある意味で同時に存在可能な世界がある. 論理的に考えてもわからないことがある. こう言ってしまうと, 論理的思考というものをどれほど信頼してよいのかという疑念も湧いてくる. 論理的思考を絶対視してはいけない. そうだとすると, 私たちは何を頼りに議論をしていけばよいのだろう….

 ここで述べた事実を正しく理解していないと, このような悲観的な考えに陥ってしまうかもしれないが, 「連続体仮説」にしろ「不完全性定理」にしろ, 実はそれほど無理なことを言っているわけではない. 例えば, 前者は今日的な「多文化主義」を支援する考え方ではないか. 互いに矛盾する価値観を持つ文化だとしても, それぞれの正当性を否定しないということ. そういう教訓を非人間的と忌み嫌われている数学が教えてくれているのだ.

 一方, 「不完全性定理」の主張を裏返せば, 何らかの方法で真の命題を獲得できれば, 人間の知識は無限に拡大することが保証されている. その真の命題を新たに常識に加えた世界を考えれば, その世界の外にさらなる真の命題が存在する. それを再び常識に加え…. これを繰り返せば, 人間が認知する世界は無限に広がっていくのである.

 では, その真の命題を獲得する方法とは何なのか? それはもはや論理的思考ではありえない. 論理を超えて真理に到達する方法. 実は, 私たち人間はすでにそれを持っているのである.


●1対1対応の考え方

 参考までに, 連続体仮説と関連して, 次の問題を考えてほしい. 自然数と整数とではどちらが多いだろうか? もちろん, 自然数とは, 1, 2, 3, 4, 5,…のことである. 整数はそれに0と負の数を加えたものである. どちらも無限にたくさんあるわけだから, 単純にその個数を比較することはできない. そこをあえて比較せよと言われれば, 整数の方が自然数よりも2倍以上あると答えたくなる人もいるだろう. まあ, その気持ちもわからないではない.

 普通, 物の個数を数えるときには, 1つ1つ物を指差しながら, 「1, 2, 3, 4,…」と数を数えていく. そして, 最後に口にした数が「5」ならば, 物は全部で5個あることになる. しかし, このように物を数える手続きが実行できるということと, 物の個数を理解しているということの間には大きな差がある. 例えば, 幼稚園児の中には, 図2のようにおはじきを並べて, おはじきは何個あるかと問えば, 黒も白も5個あると答えられるのに, どちらが多いかと問うと, 白の方が多いと言ってしまう子供がいるそうである.

図2 おはじき

 指差しながら物を数えるという方法は, 指折り計算の方法に似ていて, 原理の理解を伴わなくても正解に至ることができる. しかし, その方法が適用可能な範囲には制限がある. 幼児の場合なら, その範囲はかなり小さい. 大人の場合でも, 実際に声を出して数えられる数には限界がある. そういう言語的な制限がないとしても, この方法を用いて, 2種類の物の個数を比較できるのは, どちらの個数も有限の場合だけである.

 もちろん, 日常的には, この制限には何の問題もない. しかし, 自然数と整数の個数を比較せよという問題に対しては, 深刻な制限である. 言うまでもないが, 自然数にしろ, 整数にしろ, 無限にたくさんあるので, いくら数えても数え切れないからである.

 そこで, この問題を解決するためには, 数を比較するという行為の根本原理を知る必要がある. それは「1対1対応」の考え方である. 要するに, 黒いおはじきと白いおはじきの個数をそれぞれ数えて, その数を比較するのではなく, 黒いおはじきと白いおはじきを1つずつ組にしていけばよいのである. そして, 過不足なく対応がつけば, 黒いおはじきも白いおはじきも同じ数だけあると判断する. そうでなければ, 余った方が多いと判断する. 言われてみれば, 当たり前のことだ.

 この1対1対応の考え方がわかれば, 自然数と整数の個数の比較も容易にできる. つまり, 両者の間に過不足なく対応がつけられるかどうかを考えればよい. 例えば, 数直線上に整数が並んでいるとして, 0から初めて, 1, -1, 2, -2, 3, -3,…というように, 左右に手を振りながら, 1, 2, 3, 4,…と数えて, 自然数を整数に対応させていけば, すべての自然数と整数が過不足なく対応する. したがって, 自然数と整数は同数存在するのである.

 このような発想で, 無限集合の個数(専門的には, 「濃度」という)を比較していくと, 有理数(分数で表現できる数)も自然数と同じ個数だけ存在することが証明できる. 一方, カントール(1845―1918)は「対角線論法」というアイディアを考案して, 自然数よりも実数の方が圧倒的に多いことを証明した. つまり, 無限といえども, 自然数の無限と実数の無限は異なるのである. 数学では, 前者を「可算濃度」, 後者を「連続濃度」と呼ぶ.

 この無限の大小関係を無理に式で表せば,

可算濃度 < 連続濃度

となる. こう書いてみると, この2つの無限の間に位置する無限があるのだろうかという疑問が湧いてくる. つまり,

可算濃度 < X < 連続濃度

となる無限Xが存在するのかという疑問である. 自然数にどんどん数を追加していくと, 最終的には実数全体になるだから, それを途中で止めればXを実現できそうな気がする. しかし, そんなものは存在しないという仮説が「連続体仮説」である.

 まだ, この疑問に対する完全な答えは得られていない. 自然数を含むが実数のすべては含まない数の集まりがいろいろと定義されてはいるが, いずれも可算濃度か連続濃度になることが知られている. つまり, Xのような中間的な無限は未だに発見されていない. そもそも存在しないから発見されていないのか. 存在したとしても, 原理的に発見不可能なのか. すべてが謎のままである.

 まあ, こういう難解なことに頭を悩ますよりも, 子供に数の数え方と1対1対応の考え方のどちらを先に教えるべきかを考えた方が賢明だろう.


●三段論法の連鎖

 さて, 「連続体仮説」や「不完全性定理」のような究極的な議論は横に置いておくことにして, もっと素朴な論理的な思考, 推論について考えることにしよう.

 その推論の基本は, いわゆる「三段論法」である. A ⇒ B, B ⇒ Cならば, A ⇒ Cである(「⇒」は「ならば」と読む). 人間は動物である. 動物は生き物である. したがって, 人間は生き物であると結論する推論が三段論法である. 基本的には, いくつかの前提から出発して, 目的の結論が現れるまで, 三段論法を繰り返すことが, 論理的な推論であると捉えてもよいだろう.

 しかし, このような論理的な推論が意味のあるものになるためには, いろいろと準備が必要である. 少なくとも, 前提となる命題と, それと関連する「A ⇒ B」の形の命題(これを「プロダクション・ルール」という)が用意されていないと, 何も事が始まらない. さらに, その前提とされる命題とプロダクション・ルールのすべてが正しいものでなければ, それを組み合わせて実行される推論には, あまり意味がない.

 例えば, 「太陽は西から昇る」という命題を前提としよう. そして, 「太陽が西から昇ると, 猫は言葉を話す」, 「猫が言葉を話すと, コンピュータが妊娠する」というプロダクション・ルールを用意しよう. このとき, 「太陽が西から昇ると, コンピュータが妊娠する」という推論は論理的に正しい. しかし, この推論にどれほどの意味があるのだろうか?

 そもそも, 前提となる命題が真であり, プロダクション. ルールがすべて正当なものでないかぎり, 推論全体としては正しくとも, 最終的に到達した命題を単独の結論として切り出して理解することは正しくない. つまり, 上の例では, 「太陽が西から昇ると, コンピュータが妊娠する」という推論は正しいが, この推論だけでは, コンピュータが妊娠するのか, しないのかという問いには答えられないのである.

 では, いったい, 誰もが認める前提(しばしば「公理」と呼ばれる)とプロダクション・ルール(「推論規則」という)をどうやって用意すればよいのか. それは論理的な推論を行う前に行う行為であるから, 当然, それは論理的ではありえない. つまり, 論理的であることのみを絶対視して, それ以外の行為に目を向けないと, 論理的な推論自体を意味のある形で実現することができないのである. ここにも, もう1つの落とし穴があった.


●構造の理解

 そろそろ種明かしをしよう. 意味のある論理的推論を実現するために, 公理と推論規則を用意すること. 論理を超えて, 真の命題に到達する方法. そのすべてを解決する答えは, すでに人間の中に用意されているのである. それは….

 まず, 次の問題を考えてほしい. 今, 5×5のチェッカーボードがある. その左上の角におはじきが1つ置いてある. そのおはじきを, 上下左右のマスには移動してよいものとして(斜めは禁止), 動かしていくことを考える. はたして, すべてのマスをちょうど1回ずつ通って, もとの位置に戻ってこられるだろうか?

図3 5×5のチェッカーボード

 問題の意味自体は簡単である. 初めは, パズルのつもりで考えてみよう. そのうちに, 何かに気づくはずである. 少なくとも, すべてのマスを通って, おはじきをもとの位置に戻すことは不可能だという感触を得るだろう. 実際, それは不可能なのだが, どうやってその事実を証明したらよいだろうか?

 所詮, 場合の数は有限なのだから, すべての場合を尽くして調べれば何とかなると思う人がいるかもしれない. 確かにそのとおりであるが, おはじきの移動の仕方の総数はかなり多い. はたして, それをすべて調べ上げるだけの根気の持ち主がいるだろうか? いたとしても, そういう証明に快く耳を傾けてくれる人はいないだろう.

 そこで, 1つヒントを与えよう. まず, チェッカーボードが白と黒で市松模様のように色分けされていることに注目しよう. すると, 次の2点がわかるはずである.

  1. おはじきを移動するたびに,マスの色が交互に変わる.
  2. 白いマスは13個,黒いマスは12個ある.

 この2つの事実は誰も疑わない. つまり, これらをこれから開始する論証の公理として利用できるわけである. さらに, おはじきの移動の様子を考察すると, 初めが白で, 次が黒, その次が白でというように, おはじきは白黒白黒…を繰り返してマスを進んでいく.

 仮に, すべてのマスを1回ずつ通り, もとの位置に戻ってこられたとすると, 最後は, 白黒白黒ときて, 白で終わることになる. ということは, おはじきの移動を2手ずつ組にして考えると, 白と黒のマスが1つずつ組になっていく. つまり, 白いマス全体と黒いマス全体の間に1対1対応が存在することになり, 白いマスと黒いマスは同じ個数ずつあることになる. しかし, これは上の2に矛盾する. この矛盾の原因は, もとに戻ってこられるとしたところにあるから, その仮定がおかしいのである. したがって, 目的どおりには, おはじきを移動させることは不可能.

 鮮やかな証明だ. 「離散数学」を修得していれば, こういう証明を普通にできるが, 普通の人は, 聞けばわかるが, 自分ではひらめかないと思うだろう. (離散数学の効用については, 文献[4]を参照せよ.) しかし, 「構造を理解し, 言明する」という態度があれば, それは決してひらめきではない. 上で述べた2つの事実, 論証に用いた白いマスと黒いマスの1対1対応の存在. いずれも誰にでも観測可能な事柄である. それは誰の目にも明白なのに, それを言明する態度(声を出す必要はない)が欠けているので, それを問題解決の方略とすべく心が動かないのである.

 しかし, 「それは誰の目にも明白」という事実が重要である. つまり, チェッカーボードが白黒で色分けされていること, おはじきの移動でマスの色が交互に変わること, などなど. 誰もがそれをそうだと認知している. その誰にでも備わっている認知能力を, 私は「構造を理解する能力」と呼んでいる. そして, 標語的に「構造の理解」と言っている.

 その「構造の理解」には, 次の3つのフェーズがある. それは, 構造の「感知」, 「付加」, 「同定」である. 順に, 構造があると感じ取ること, 構造を能動的に追加して対象を見ること, 2つの対象に存在している構造が同じ, または異なると判断することである.

 上の例だと, チェッカーボードが色分けされている事実に注目することが構造の付加に相当する. 構造を付加することで, 1と2として挙げた新たな構造が感知される. さらに, グラフ理論を知っていれば, それが二部グラフの構造と同じだと判断するだろう.


●赤ちゃんのお絵描き

 そもそも「構造」とは何なのか. この言葉は本来単独では意味を規定すべきものではない. これこれの構造があるとか, ないとか言って使うべき言葉である. 要するに, 構造を理解するということは, それをそうだと思うことである. ずいぶん曖昧な表現だが, 意図するところは伝わるだろう. 丸いものを見たら丸い, 四角いものを見たら四角いと思うことである. そして, そういう能力は誰にでも生まれたときから備わっていると考える. これはあくまで私の仮説でしかないが, それほど無謀なものではない.

 例えば, 赤ちゃんに紙と鉛筆を持たせて, 初めてのお絵描きをさせてあげると, 次のようなことが起こると言われている. まず, 鉛筆を手にした赤ちゃんは, だーだーと言いながら, 曲線をランダムに描くらしい. そのうち, 偶然に円に近い閉じた曲線が描けると, それをしばらく見つめている. その後, 落書きを再開するものの, いずれは曲線を描くのに飽きてしまい, 鉛筆を立てて, ぶちぶちと点を打ち始める. そして, たまたま先ほど描いた丸の内部に, 2つの点が打たれると, 今度は食い入るように見つめるそうである.

 これはどういうことなのか. 赤ちゃんには聞けないので本当のところはわからないが, どうやら丸に点々の構図がお母さんの顔に見えるらしい. 言うまでもないが, 丸がお母さんの顔の輪郭で, 点々が目である. 昆虫などの擬態の模様に見られるように, この構図が顔に見えるのは人間だけのことではないようだが, それには深入りしないことにする.

 いずれにせよ, 赤ちゃんは丸に点々からお母さんの顔を連想できるという前提で話をする. ここで重要なのは, お母さんの顔が丸に点々に見えているのではないということである. 赤ちゃんの目といえども, その網膜にはお母さんの顔がリアルに映っているはずである. 確かに, その信号が赤ちゃんの脳に伝達する過程で情報が失われてしまい, 赤ちゃんが丸に点々という構造だけを知覚しているという可能性も否定できない. しかし, 人見知りをする赤ちゃんがいることを考えれば, お母さんの顔と他の人の顔を区別できる程度の知覚はあると判断してもよいだろう.

 ということは, 赤ちゃんはお母さんの顔が丸と点々に見えるのではなく, お母さんの顔に丸と点々という構造を感知していると考えるのが妥当だろう. さらに, それとお絵描きに現れた構造が同じだと同定している. つまり, 赤ちゃんは構造の理解をしているのである. お母さんから教育された成果として, そういう理解が生まれるのではなく, 生まれながらにして赤ちゃんには構造を理解する能力が備わっている. そう考えるのが自然である.


●人間はそんなにバカじゃない

 では, どういうメカニズムでそういう能力が実現されているのか? 残念ながら, この問いに対する答えは, 今後の脳科学の研究成果を待たざるをえない. しかし, 脳内のメカニズムは不明だとしても, それを現象的に理解することは可能である. すでに述べたように, 人間は構造の感知, 付加, 同定を繰り返して, ものを認知している. 単に, 円を見て「丸い」, 正方形を見て「角がある」というプリミティブな構造の理解にとどまらず, それを積み重ねて, 複合的な構造を理解する.

 その構造が複雑になればなるほど, 人間自身がそれを意識しているかどうかは怪しい. 例えば, 簡単すぎる例ではあるが, チェッカーボードが色分けされていることは目で見ればわかるのに, それを明示的に意識する人は少ない. そのため, ほとんどの人がそこで示したような鮮やかな証明には至れないのだ.

 ここで注意しておきたいのは, 本人が意識する・しないにかかわらず, 人間の脳は構造の理解を実行しているという点である. それに関連して, ある認知科学の本の中で, 次のような話を読んだことがある.

 まず, 図4を見てほしい. それは折り紙の過程を表している. 折り紙を四つ折りにして, 最後に黒丸のところに穴を開ける. それを開くとどうなっているだろうか. その状態を表している絵を図5の解答群から選びなさい.

 この問題は簡単である. 説明するまでもないが, その答えは「B」である. しかし, 子供にこの問題をやらせると, 必ずしも正解を口にしない. そこで, 正解を答えられる子供と不正解になってしまう子供の認知過程の差異を調べるために, 子供たちの目の動きを調査したそうである. 人間の目のレンズに光線を当てて, その反射角から, 見ている位置を特定する装置があるらしい.

図4 折り紙の問題

図5 解答群

 まず, 正解に至る子供の目の動き. 当然のことながら, 初めは折り紙の過程を順に目でおっていく. そして, 最後の穴開けの図を見つめて, しばらく眼球の動きが停止する. 続いて, 解答群に視点が移動し, 「A」を一瞥した後に「B」を見つめてしばらく停止する. その後は「C」, 「D」, 「E」をさらっと眺めて, 「B」と答える. 穴開けの図で眼球が停止するのは, それを見つめながら頭の中で折り紙を広げているから, 「B」で止まるのは, そこで折り紙を畳んでいるからだと解釈されている.

 一方, 不正解になってしまう子供の目の動きは, 落ち着きなくいろいろな図に視点が飛んでしまう. しかし, その子が解答群の中で最初に目にしたのは「B」だった. その本に載っているたった1人のサンプルを根拠に断定的に言うのは無謀であるが, 私はこの事実を非常に象徴的に捉えている.

 つまり, 人間の脳は, 本人の意志とは無関係に処理を行い, 構造の理解を実現しているのである. そして, その処理結果の情報を体の各部位に送る. そのため, 落ち着きがない子供といえども, その目はいったん正解を見るのである. しかし, 落ち着きのない子供の意識は, 目の動きに限らず, 「正解」に反応する体の各部位の動きをキャッチできずに, 適当な答えを口にしてしまうのだ. 自分が思っているよりも, 人間というハードウェアは頭がよいことを知るべきである.


●数学は構造の科学である

 さて, 人間は「構造」を理解する. それは「論理」を超えた理解である. だからといって, その理解はでたらめな思いつきの類ではない. 構造が理解された瞬間には「ひらめいた!」という体感を得るかもしれない. しかし, それは「ひらめき」という言葉が象徴するような何の根拠もないところから湧き出したものでもない. その理解はそれなりの「原理」に司られて生まれたものである. だからこそ, それは論理的な推論の正当な前提と推論規則を提供する. さらに, 「直観」という名のもとに, 論理を超えて真理に到達してしまうこともある.

 では, その「原理」とは何なのか? やはり, それに形容詞をつけるとすると, 「数理的」, 「数学的」ということになるだろう. 人間の脳の働きを司る原理が他の言葉で形容できるとは思いにくい. はたして, 脳内のニューロン・ネットワークの成長を, 人間社会の変化に見立てて, それを司る原理は人文社会学的原理だと主張する人がいるだろうか.

 ニューロン・ネットワークの研究といえば, 生物学やコンピュータ・サイエンスに属すだろう. しかし, そういう分野の研究が解き明かす現象の背後には, いつも「数学」が控えている. さらに, すべての自然科学の根底には数学的原理が働いている. 正確に言うと, 科学という学問の根底ではなく, 自然界そのものの根底に「数学」があると言っても, 言い過ぎではないだろう. 「万物は数である」と唱えたピタゴラス学派の人間でなくても, 森羅万象が数学的原理に司られているという考えに賛成してくれる人は多いはずである.

 とはいえ, こう言い切られると, 違和感を覚える人も少なくないだろう. しかし, それは, 不可解な数式を操る数学のイメージが頭にこびりついている人の感覚である. 世間で起こっていることがすべて数式で表現できるわけがない. だから, 世の中は数学に支配されているはずがない. 確かに, 「数学」=「数式」という図式を認めれば, この推論は正しい. しかし, この等式がそもそも正しくないのである. この等式は, 学校数学という限定的な枠組みの中で植え付けられた数学の悪印象を言明しているにすぎない.

 では, 数学とは何なのか? 数学を学校数学の発展形と捉えている人たちの先入観を払拭することは難しいが, よく「数学は構造の科学だ」と言われている. 実際, 現代数学に関する記述の随所に「構造」という言葉が登場する. 幾何構造, 代数構造, 解析構造, 位相構造, 離散構造, などなど. また, フランスの数学者集団である「ブルバキ」によって遂行された現代数学の公理化は, 見ようによっては人間が認知する構造の公理化であると言えなくもない.

 例えば, 面積とは何なのか? もちろん, 誰でも面積が何なのかは知っている. しかし, その「何か」を説明してみろと言われたら, きちんと説明できる者はいないだろう. 仮に「面積とは広がりだ」と言えば, 感覚的にはわかった気になるかもしれない. しかし, 新たな無定義用語に責任を転嫁したにすぎない. 実際, 面積とは何なのかをずばりと言い切ることは, 数学者でさえ不可能である.

 そこで, どうするかというと, 「面積」という概念に期待される性質を列挙するのである. その行為を「公理化」という. つまり, こういう性質を満たすものを「面積」と呼ぶことにしようと約束するのである. 例えば, 図形を分割したとき, 分割の断片の面積を足し合わせれば, もとの図形の面積になる. この性質を認めればこそ, 三角形の面積を指導した後に, 平行四辺形の面積がどうなるかと子供たちに問うてもよいのである. もし, この性質を知らなければ, 「平行四辺形の面積」という無定義用語を前にして, 子供たちはなす術なく, 困惑するだけだろう.

 人間が認知し理解している構造を分類し, それを特徴付ける性質を列挙する. そして, その性質(「公理」と呼ばれる)を出発点として, 議論を展開し, その構造のもとで展開される現象を解明していく. 現代数学とはこういう学問なのである. とかく, 現代数学は抽象的でよくわからないと言われるが, このように捉えれば, 数学とはまさに人間を科学する行為なのである. この構図を踏まえて現代数学を鳥瞰し, 初等中等教育で行われている算数・数学を理解しなおすと, 新たな教育理念を創出できるかもしれない.


●学問と原理を分離する

 いずれにせよ, 現代数学をその慣習に従って(難しい数式を解読して)理解することは素人には難しい. そうするにはある程度の訓練が必要である. しかし, それは本稿の目的ではないので, これ以上は深入りしない. なにやら難解ではあるが, 人間が理解する構造を探求する学問があるらしいと思っておけば十分である. そして, 「数学」という1つの言葉が, あるときにはその学問分野または学問体系を意味し, またあるときには様々な構造に潜む「原理」の総体を指していたことに気づいてほしい.

 学問としての「数学」と原理としての「数学」. この両者を分離して捉えることが重要である. そして, 両者の混同を避けるために, 前者を単に「数学」といい, 後者を「数学的原理」と呼ぶことにしよう. ここまでの議論に違和感を覚えていた人は, この区別をせずに, 漠然と「数学」を捉えていたのである.

 学問としての「数学」. それは, 人間の歴史とともに発展し, その時代や地域のニーズに依存して姿を変えてきた. 例えば, 多くの冒険家たちが地球上を隈なく探検していた大航海時代には, 天球や地球を対象とする球面幾何学が活躍していた. そして, 望遠鏡の精度が上がり, 星の運行に関するデータが集積されてくると, それを統一的に扱うための解析学や微積分学が発展した. また, 日本の算額に刻まれている円の複合体は, 実利的な目的というよりも, 当時の卓越した和算家たちの美意識の現れであろう.

 一方, 原理としての数学, すなわち「数学的原理」は時代を越えて不変である. 天才たちの発見によって, 数学的原理は定理や公式という形を借りて顕在化する. しかし, それはあくまで人間の目に触れる表現を得たにすぎない. 人間の目に触れようと触れまいと, また, 人間が無視しようとしまいと, その原理は普遍的に存在するのである.


●人間の介在

 こういう言い方をすると, 数学的原理の普遍性と比べて, 人間の存在は些細なもののように感じられるかもしれない. しかし, 人間も捨てたものではない. 人間がいなければ, 数学的原理は単に物質的な世界を制御するしくみとしてしか機能しないだろう. そこに人間が介入することで, 数学的原理が顕在化する世界は2倍にも, 3倍にも膨れ上がるのである. 恐竜が見上げていた宇宙よりも, 棍棒を振り上げた原始人が見ていた宇宙の方が圧倒的に大きいのだ.

 夜空の星は, 北極星を中心に回転している. 地動説の立場をとれば, 地球の方が北極と南極を結ぶ直線を軸として回転している. さらに, 地球を含む9個の惑星(10個という説もある)は太陽のまわりを回転している. 人間は, その回転という現象を, 身のまわりに存在する回転と基本的には同じものだと解釈する. 自転車の車輪, 水溜りのミズスマシ, 倒れないコマ, などなど. そのすべては, 回転軸, 求心力, 遠心力, 角運動量という要素で特徴付けられる共通の構造を持つ現象であると同定する. それを構造といわずに, 「数学的原理」と言ってもよいだろう. その共通の原理を微積分学の手法によってまとめ上げれば, 回転運動方程式という形式が得られることになる.

 この「形式」に至るまでのプロセスは, すべて人間が実行している. もちろん, 数学を使うという部分は専門家でないと実行不可能だが, 夜空の星の回転と車輪の回転の中に共通の構造を感知することは誰にでもできることだろう.

 いずれにせよ, その共通原理を抽象した「形式」は, 素朴に観測できる以上のものを表現している. それは原子核を取り巻く電子たちの回転にも, 太陽系を含む銀河の回転にも適用可能なものである. (あくまで古典的な物理学での話であるが….) その「形式」は, たった1平方メートル程度の机上で, 極微の世界から超巨大な世界に至るすべての現象を表現することを可能にしてくれる.

 「原理」を表現する「形式」を作り上げること, その「形式」に「意味」を与え, 森羅万象を表現すること. そのすべてを人間が行っているのである. この過程は, 指折り計算に始まり, 速算術のダイヤグラム, 数式の展開へとつながる話と同じ構造をしている. 学問という形態に仕上げることは特別な訓練を受けた者にしかできないことだが, 程度の差こそあれ, 具体物に見出した現象を形式化して理解するという行為は, 人間ならば誰でも行っていることである. つまり, 「構造の理解」を遂行しているのである.

 この「構造の理解」のプロセスを機械化することは難しい. いくらコンピュータが発達したといえども, そんなことができるコンピュータは未だに登場していない. それは人間自身が「構造の理解」を実現する原理を発見していないからである. しかし, その原理を発見できなくとも, 私たち人間は「構造の理解」を自らの内部で実行してしまう. すでに, 原理を無視しても指折り計算が可能なのは, 指の屈伸の中にその原理が存在しているからだと述べた. これと同じように, 人間の内部で「構造の理解」が実現させてしまう未知なる「原理」も, 人間の内部に存在していると考えてもよいのではないか. つまり, 構造の理解を司る原理, すなわち, 「数学的原理」は人間の中に宿っているのである. そして, 人間は, 数学的原理を顕在化させる「メディア」として世界に介入しているのである.


●世界を司る3要素

 これでやっと「人の中に宿る」という言葉を引き出すことができた. 人と原理が結合することで形式が生まれ, それに意味を付与することで, 様々な現象が表現される. そして, 形式を生み出す初期段階には, 具体物とともに展開される現象(「具象」という)がある. その現象に付随する構造を理解することで, それを司る原理の形式化が開始される. その営為はすべてメディアとしての人間の介入によって行われることも重要だった.

 「具象」, 「形式」, 「原理」. 具象とは, 「物」の世界で繰り広げられる具体的な現象である. その現象を「形」という言葉で象徴するのもおもしろい. その「形」の多くは, 人間の意識とは独立に生まれたものである. 一方, 「形式」は人間が作り上げたものである. さらに, 人間が付与した「意味」とともに存在することで, 広い意味での「言葉」を形成する. 「具象」にしろ「形式」にしろ, それは「原理」を顕在化した「表現」である. 表現であればこそ, 状況に応じてその姿は変化する. しかし, その根底に控えている「原理」は共通であり不変である. それを, 音は同じであるが, 「普遍」という.

 このような3要素で語られた世界観はさほど新奇なものではない. 過去, 現在における偉人たちの多くが同じようなことを言っているだろう. 例えば, 天才数理物理学として有名なロジャー・ペンローズは, 「物質的世界」, 「精神的世界」, 「プラトン的世界」という3つの世界を想定した世界観を示している. もちろん, 「物質的世界」はここでの「具象」に対応する. 「精神的世界」はそのままでは「形式」と直結しにくいが, 「形式」が人とともに存在すること, すなわち, 人間の精神が大きく関与していることを思えば, 両者の対応が理解できるだろう. そして, 「プラトン的世界」が「原理」の世界である. それはプラトンが言うところの「イデア」の世界である. この3つの世界が互いに他の中に投影されて, 様々な現象が生じると考える. (ペンローズ自身の考え方や, それに対する著名人たちの見解を知りたければ, 文献[5]および[6]を参照せよ.)


●意味の階層構造

 しかし, 「具象」, 「形式」, 「原理」の3要素は, ペンローズの3つの世界のように, 三権分立的に存在しているのではない. 特に, 「具象」と「形式」は入れ子になっている. 例えば, 特定の「形式」の取り扱いに慣れてくると, それに付与された「意味」を明示的には意識しなくなる. その意味の隠蔽(カプセル化)に成功した時点で, その形式は具体物と同じように取り扱われる. 意味が隠蔽されると, 「形式」は「具象」となり, 見掛け上, 原理は人間の意識とは独立に発動されるようになる.

 例えば, 中学校で習う連立方程式の解法を思い出そう. それは, 係数を揃えて2つの式の引き算をするなどして, 未知数を減らしていくのだった. 小学校のときには, 鶴亀算のように意味を考えて連立方程式を解いたのだが, それでは解ける方程式に限界がある. その限界を克服するために, 数式を使うことを習う. そして, 等式の性質を根拠に, 「加減法」や「代入法」という解法を理解する. しかし, その解法に慣れてくると, いちいちその意味を考えて式変形をしない. つまり, 意味が隠蔽されるわけである.

 いずれにせよ, 大学に入学して線形代数を学ぶと, 再び連立方程式が顔を出す. ただし, 連立方程式やその機械的な(具体的な)解法が抽象化されて, 行列や行列式という「形式」に姿を変える. 期末試験に合格すればいいやという程度の理解にとどまると, 「ベクトルや行列の計算」というラベルとともに意味の隠蔽が起こる. さらに, ベクトルや行列の計算にストレスを感じずに, 線形写像や線形空間という形式の意味が理解できれば, 一般的な代数学への扉が開かれることになる.

 線形代数を知らない人には, 上の記述は意味不明だろう. 理系の勉強をしたことがないのなら仕方がない. しかし, 次のような概念的な理解はしてほしい. 「意味」の隠蔽に成功して「形式」が「具象」と化すと, その具象とともに発動された「原理」が, 新たな具体的な現象として表面化する. そして, それを表現するための新たな「形式」が考案され, それに新たな「意味」が付与される. このプロセスが繰り返されるたびに, 意味の世界は拡大し, 階層構造が一段階深まることになる. 指折り計算, 速算術のダイヤグラム, 数式の展開という流れと対照させて考えてみるとよい.

 しかし, 高校までの勉強だけでは, 意味の世界に新たな階層が刻まれる瞬間を体感することは難しいかもしれない. もちろん, そういう機会は随所にあるのだが, それを意識している人は少ないだろう. それどころか, 多くの人が意味の隠蔽ではなく, 抹消を繰り返している. その結果, 何でもかんでも暗記する羽目になってしまうのだ. なぜなら, 階層構造のない意味の世界には, 物とその名称の組だけが存在しているからである.


●数学小説『第三の理』

 さて, 具象から形式へ, 具象とともに発動する原理, 形式による原理の表現. そして, 具象と形式の入れ子. 「具象」, 「形式」, 「原理」という3つのキーワードで語られる世界観. その世界の遷移は, いわゆる「ハノイの塔」の解法に似ている.

 知らない人のために解説しておくてと, ハノイの塔とは図6のようなパズルである. 3本の棒があり, 1番目の棒に穴の開いた円盤が大きい順に積み上げられている. その円盤全体を2番目の棒に移動せよというのが, このパズルの問題である. ただし, 円盤は1つずつ移動するものとして, 小さい円盤の上に大きい円盤を乗せてはいけない. このルールを守るかぎり, 円盤をどの棒に移動してもかまわない.

図6 ハノイの塔

 円盤の枚数が多くなると簡単には対処できないが, 2,3枚の場合なら, 頭の中だけでもできるだろう. そして, 目的の移動を実現するには, 第三の棒の存在が重要であることがわかるはずである. つまり, 移動前の棒を「具象」, 移動先の棒を「形式」, そして, 第三の棒を「原理」に対応させると, 前項で述べた世界の在り様と見事に符合するのである.

 このことに気づいた私は, 上述の世界観をハノイの塔にまつわる架空の伝説という形で表現して, 数学小説『第三の理 ―ハノイの塔修復秘話』(文献[3])を著した. さらに, 「数学的原理」に最も精通する存在としての「数学者」の姿を描いた. 本稿同様に, 文学志向の人が持つものとは異なるデータベースを前提に書かれた小説なので, その作品としての評価はいろいろである.


●数学者という人間

 いずれにせよ, 人間に宿る根源的な原理が「数学的原理」なのだとすると, 最もそれに近い人間として数学者像を考えるのもおもしろいだろう. それは, 単に大学で数学を教えている先生ではない. 俗に「数学者」と呼ばれている人間がそうなのかどうかは問わずに, あくまで「数学的原理」に精通した究極的な人間像を考えてみよう.

 「究極」の状態とは, もはや遷移の起こらない状態である. となると, 究極の状態においては, 「具象」と「形式」に本質的な違いがない. さらに, 「具象による現象」=「形式による表現」として, すべての「原理」が顕在化している. そういう究極的な状況を許容する「数学者」には, すべての「原理」が内在しているべきである. なぜなら, 原理が人の外にあれば, 「具象」から「形式」へという遷移が動き出してしまうからである.

 このような究極の「数学者」の口から出る言葉は, すべて真理を表すメッセージである. もはや命題を証明するまでもなく, すべてが真実なのである. もちろん, 普通の数学者でも真実のみを「定理」という形で陳述するが, それには必ず「証明」が付随する. 究極の「数学者」はそれを証明というプロセスなしにやってのけるのである. それは究極の「構造の理解」のなせる技, 「数学的原理」との完全な結合である.

 少々, いや, かなり怪しげな話になってきたが, この話はあながち非現実的ではない. 例えば, 著名な数学者たちは, 多くの「予想」を残している. 現在の数学という学問形態では, 証明なしに定理を述べることは許されないが, 研究の過程で絶対に正しいと確信した命題を「予想」として公開することがある. もちろん, 単に予想するだけなら誰でもできるが, 世界中の数学者が証明を試みてもうまくいかず, かといって, 反例も発見することができないような予想を述べることは容易ではない.

 例えば, 有名なところでは, 「フェルマーの最終定理」がそのよい例である. 17世紀にフェルマーが口にした「3以上の自然数nに対して, xn + yn = znを満たす自然数 x, y, z は存在しない」という命題の真偽が, 多くの数学者の挑戦を受けたにもかかわらず, 360余年, 未解決問題として生き残っていた. 1994年にワイルズによって完全解決されたことは記憶に新しいが, その証明は数百ページに及ぶ. フェルマー自身も証明できたと言っているが, それは彼の勘違いである可能性も高い. しかし, 数学者が何百年間も考え続けないと正しいことが判定できない命題を口にできたということはすごいことなのである.

 確かに, 通常, 「予想」といえば, あてずっぽうに近い行為である. しかし, 著名な数学者が最終的には正しいと結論される命題をたくさん予想として述べているという事実を, 単なる偶然が重なっただけと捉えてよいのだろうか. もちろん, そんなことはない. 数学者が著名になるのは, 「定理」と「証明」というスタイルにおいても功績を上げているからである. 数学的原理を正しく感知して, それを証明という形式に表現できる人間として信頼されているからである.

 いずれにせよ, 究極の「数学者」とは, すべての原理を自らの中に抱え, 口にすることのすべてが真の命題となるような人間である. もちろん, そういう人間がいるとは思えないが, 数学者にそういうイメージを重ねて見ている人はいる. 例えば, ダーレン・アロノフスキー脚本・監督の映画『π』の中で, そのような数学者像が描かれている. その主人公のマックスはすべての現象にはパターンがあると信じ, 株式市場のパターンを解析しようとしていたが, 最終的には, 自らがそのパターンと同化した存在になってしまった. つまり, 解析というプロセスなしに, 株式市場のパターンと同じ数字の列を口にできるようになったのである.


●見えないものが見えてくる

 究極の状態では, 「具象」と「形式」が融合し, すべての「原理」が顕在化する. それを体現する究極の「数学者」は, そのすべてを「直観」できる. つまり, 普通の人には形式的にしか思えない表現でも, それをより高度な形式のうちに取り込んで, 具体物と同様に捉えるのである. それを可能にする「直観」を持った「数学者」には, 同じ世界を見ているにもかかわらず, 私たちには見えないものが見えているに違いない.

 この状況を比喩的に捉えるために, いわゆる「立体視」を考えてみよう. 例えば, 図7には, ほんの少しだけ向きの違う多面体の絵が描かれている. 寄り目にして, 2つの絵をだぶらすことができると, 立体的な正十二面体の姿が浮かび上がってくるのである.

図7 立体視にチャレンジ!

 こう説明されたところで, なかなかうまく立体視ができない人が多い. 右目と左目から異なる視覚情報が入力されることで, 物が立体的に見えるという原理はよく知られているが, その原理は, 私たちが意識しないところで動いている. 通常は, 外界を認知するのに適したように目の向きと焦点が自動的に調整されてしまうので, 紙の上に描かれた2つの図形はあるがままにしか見えない. しかし, その原理を自分の内部で発動し, 自分の意志で目をコントロールすることができれば, そこに存在するはずのない立体図形が見えてくるのである. それは幻覚ではない. 立体視の原理に従って生成された「具象」である.

 これと同じように, 究極の「数学者」は, 原理の表現である「形式」に対応する「具象」を「直観」することができるのある. 実際, 数学者の中には, 「4次元空間」という形式的な存在に対して「見える」という感覚を持っていると主張する者がいる. それは決してオカルト的な超感覚ではない. その感覚がどのようなものかを知りたければ, 文献[2]を読むとよい. そこには, 4次元空間を見るという試みに加えて, 宇宙空間が全体としてどういう形をしているのかを直観しようという話が書かれている.


●メディアとしての人間

 いずれにせよ, 究極の「数学者」は概念的な存在であり, 自分自身がそれになれるわけではない. しかし, その究極的な状態を考察することで, 「数学的原理」を宿す人間がどのような「メディア」なのかがわかってくる.

 自分の中に宿る原理を意識しなければ, 外界や肉体に潜む原理の発動によって作られた映像(世界)だけを目にすることになる. 自分もその映像の一部として参加しているわけだが, そこには環境に動かされている自分がいるだけだ. その状態をよしとする人生もあるだろう. しかし, それに甘んじることを潔しとしないのなら, 自分の中に宿る原理を探求すべきである. そして, 原理に裏付けられた新たな「直観」を介して, 独自の映像を世界に追加しよう.

 この構図を踏まえた上で, 映画『マトリクス』を見れば, 主人公・ネオの仮想空間における行動の意味が理解できるだろう. そうでなければ, 「ド派手な映画だなあ」という感想しか残るまい.

 自分という「メディア」は自分の中に宿る原理に直結している. そのメディアが伝えてくれる無言のメッセージを正確にキャッチし, それを言葉に置き換えていこう. そうして生まれた言葉は, 究極の「数学者」が口にする命題と同じ重みを持っている. その命題の真偽はもはや証明するまでもない.

 ところが, 外からの雑音が大きい. 例えば, 先人たちの言明や歴史について知識のない者が発言すると, 非難されることがよくある. 知識のない者は, 知識のある者の前で萎縮する. そして, 無口になってしまう. さもなければ, 自分も知識を得ようと, 必死に読書に励み, いろいろなことをせっせと暗記する. もちろん, 先人たちの言葉には説得力があるが, その代弁者になったところでしかたがないのに….

 いずれにせよ, 自分という「メディア」をフル活用する上で重要なことは, 徹底した自己観察である. それは, 自分の中に宿る原理を探ることと同じである. そして, 自分に宿る原理に基づいて自分の考えを構築していこう. 外からの雑音に耳を傾け, 知識を吸収するのはそれからでいい. 確かに, 外から得た知識は, 自分の考えを補強するためには便利である. しかし, 知識だけで自分を固めてしまうと, 自分を動かす原理は, 自分の外にあることになってしまう.

 実際, 本稿で述べたことの大半は, 私個人の自己観察に基づいている. きっと, その多くは昔の誰かがすでに考えていたことで, 「誰それの何とか主義」と名前がついているのかもしれない. しかし, そんな指摘を受けたところで, 「その人も同じことを考えていたんだね」と思えばよいだけのことである. 誰かの主張と同じだからといって, 自分の主張の意味がなくなってしまうわけではない. 自分自身の中にその根拠があるのだから. むしろ, 他の人の中にも同じ原理が宿っていたことを喜ぶべきである.

 誰もが真理を発信するメディアである. そして, すべての外付けの知識を捨てたとき, 最終的に残るものは「数学的原理」しかない. それを理解した上で, 人間にとって「数学」は必要なのか, 不必要なのかを判断しよう.


●参考文献

  1. D. ネルソン, G.G. ジョセフ, J. ウィリアムズ 著, 根上生也, 池田敏和 訳『数学マルチカルチャー ―多文化数学教育のすすめ』, シュプリンガー・フェアラーク東京, 1995年4月14日.
  2. 根上生也 著『トポロジカル宇宙』, 日本評論社, 1993年12月10日.
  3. 根上生也 著『第三の理 ―ハノイの塔修復秘話』, 日本評論社, 1999年3月10日.
  4. 根上生也 著「離散数学で変わる数学教育」, 日本数学教育学会編『日本の算数・数学教育1998 ―算数・数学カリキュラムの改革へ』, pp.129-146, 産業図書, 1999年3月17日.
  5. R. ペンローズ著, 竹内薫, 茂木健一郎 訳・解説『ペンローズの量子脳理論』, 徳間書店, 1997年5月31日.
  6. R. ペンローズ著, 中村和幸 訳『心は量子で語れるか』, 講談社, 1998年3月18日.
(情報認知システム講座 根上生也)

negami@edhs.ynu.ac.jp [2000/2/22]