『a+u』 連載:建築とコンピュータ・サイエンス 第11回(最終回)

再帰的な建築をめざして

対談 根上生也×風袋宏幸

  昨年の5月から1年間連載してきた「建築とコンピュータ・サイエンス」も今回で最終回となった. 序盤(1-4)はコンピュータ・グラフィクスによるデザイン手法を掘り下げ, 中盤(5-7)は解析技術からモノづくりへの展開を考え, 終盤(8-10)はデザインを行う上での世界や意識の問題に入り込んだ. そして最終回. この連載の共通テーマである「コンピュータ・サイエンス」と密接に関わる, 数学の世界で活躍されている方の力をお借りする. 「新しい世紀に向けて, 小さくとも力強い軌跡でありたい」と記した初回の思いは, はたしてどこまで届くであろうか.
 対談にご協力頂いた, 根上生也氏は, 日本における 位相幾何学的グラフ理論のパイオニアとして精力的に研究を続けられる数学者である. 現在, 横浜国立大学教育人間科学部助教授として啓蒙的な論説や著作の執筆にも励んでおられ, 昨年春には『第三の理 ―ハノイの塔修復秘話』1という数学小説を出版された. また「コンピュータ・サイエンスから生まれる新しい基礎科学」をテーマに行われた『Web鼎談』2での氏の発言から本連載全体に関わる貴重なヒントを得た. (以下,N:根上生也 F:風袋宏幸)

2000年3月2日,根上の研究室にて撮影


数学的思考

F01 少し漠然とした質問になりますが, 数学的な思考方法の中で根上さんが重要だと考えているものはどんなことですか?


N01 普通, 数学的思考方法というと, 論理的であることだと思われがちですが, 論理的であることは, 最終的に 獲得された答えを表現する段階で必要なことです. ことを起こすときに重要なことではありません.

 標語的にいうと, 数学的思考方法の基本は「待つこと」です.

 受験問題のような問題を解くことだけを想定して, 数学的思考方法を限定的に捉えているのなら, 「待つこと」は, その目的には反するでしょう. 十分に練習を繰り返して, 条件反射的に即答できるようにしておけばいいわけですから.

 さて, 「待つこと」とはどういうことかと言うと, 自分自身の中から余計なものがなくなる状態を実現することです. 私のゼミ生は, 議論をしているときに, よく「それは思い込みじゃないのか?」と言い合っています. 人間だから, いろいろな思い込みがあって, 自分の発想にバイアスが掛かってしまう. その結果, 「本当」が見えなくなってしまう可能性があるわけです. それの可能性を排除するために, 「思い込みじゃないか?」と言い合うわけです.

 問題と対峙して, じっと待つ. すると, 何かが見えてくるのです. 私は人間というハードウェアの性能を信じています. 自分が思っている以上に, その性能は高く, 自分が意識する, しないにかかわらず, 脳味噌のどこかが正解を目指して動いています. その部位が発信してくれる情報を正しくキャッチすれば, 正解を口にすることができる.

 ところが, 外付けの知識に翻弄されて, その情報をキャッチできない人が多いわけです. そういう外付けの知識が生み出す雑音を1つ1つ排除していって, 無音の状態を実現できるまで, じっと待つ. すると, 正解を教えている無意識からのメッセージがちゃんと聞こえるようになるというわけです.


F02 問題の構造が, パッと瞬間的に見えるという人の話を, たまに聞きます. だんご3兄弟でもお馴染みの, CMプランナーの佐藤雅彦さんの話の中でも, 突然何かのイメージがバーンと現れるという体験談を聞きました. 世間的にはそうしたことを「天才的」などと呼ぶのだと思います.

 そこで素朴な疑問なんですが, 常に「何かが見えてくる」ものでしょうか. もし, 待っても何も見えて来ないとき, そして制限時間があって, それだけがどんどん迫って来るときはどう対処するのでしょうか? 


N02 確かに, 「すごいことが突然ひためいた」と告白する人もいますが, それはあくまで「ひらめいた」とう体感を得たといっているにすぎません. それなりの合理的なアイディアが何の根拠もないところから, 降って湧いてくるわけがありません. 人間の中に潜在している何らかのメカニズムが作動した結果として, そういう「ひらめき」が生まれたはずです. そのメカニズムの部分が意識されないので, 「ひらめいた」という感覚を持つだけだと思います.

 例えば, 私が『第三の理』という小説を書こうと思ったのは, まさにひらめき的でした. ある瞬間に, 小説全体がすべて見えてしまった感じがしました. その細分まで, そのときに見えていたわけではありませんが, キーボードに向かうと, 自分でも驚くほどに, 文章が湧き出てきて, 主人公が勝手に活動し, 次のシーンが勝手に頭に浮かんできました. 瞬間的なひらめきというより, ひらめきっぱなしという状態が2週間ほど続きました.

 でも, 出来上がった作品の内容を見ると, 自分の経験や日ごろ主張している事柄が随所に配置されていて, 決して, 霊的な神秘体験だとは思いません. それは, 私の中の何らかのメカニズムが長時間かけて完成してくれた答えが意識に浮上しただけのことだと思います. そのプロセスが無意識下で行われているので, その「気づき」が突然起こったような感覚を覚えて, 「ひらめいた」と言いたくなっているだけだと思います.

 で, 私が, 「思い込みを排除してじっと待つ, すると何かが見えてくる. 」と言っているのは, 上で述べた自分の無意識下で稼動しているメカニズムと対峙するということです. さらに, そのメカニズムを意識できるようになると, 「ひらめき」を意識的に生み出すこともできるようになります. さて, 素朴な疑問についてですが, 何も見えてこなかったら, とりあえず, ほったらかすです.


F03 根上さんの「ひらめき」のメカニズムが分ってきました. そしてそれの変形バージョンもどきを, 僕がこれまでやってきたのだと感じました. 文章を書くときでもデザインを行うときでも, ある程度情報を収集したり整理したりした後, それらを一旦ストップし, ぐちゃぐちゃと何かをいじくり回す状態(収集した情報を操作するという訳ではありません)がしばらく続きます. この状態がある濃度に達した時, ふっと, 「これでいこう!」というときがやってきます. これまでの経験では, この濃度に一定の基準があるようです. その基準以下だと事は起こりません. 「数学的思考法」との大きな違いは, 建築の場合は外付けの情報が結構活躍するケースが多いということでしょうか.


N03 ちょっと予断ですが, 「リング」という映画に, 真田裕之演じる数学者が登場します. あるシーンの中で, 助手の女の子に, 論文の締め切りが迫っていることを訴えられているのですが, 笑っちゃいました. 数学の論文に締め切りなんてありません. 確かに, 研究集会の報告書とか, 商業誌に掲載する記事とかならば, 締め切りはありますが, 研究それ自体に締め切りが設定されているなんてことはありません.

 確かに, 「商売」としてやっているものには, 締め切りがあって当然ですが, それは単に作業条件の1つでしかないはずです. でも, 本当に探求したい事柄には, 締め切りはありませんよね. あえていうならば, 自分が死ぬ日がその締め切りかもしれません.

 それは数学に限ったことではないでしょう. 建築のデザインをされている人でもそうなのではないですか?クライアントがいて, そのニーズに合わせて仕事をするという「商売」の枠組みを超えて, デザインを考えるという行為もありますよね. 少なくとも, 風袋さんの連載はそういう行為の存在を感じさせてくれます.


F04 そうですね. 問題と向き合い, 考え続けるというこの連載は, 僕にとって意味のある濃密な時間でした. 意味の収支勘定があるとすると, 大黒字だったと思います. ただ, 商売の収支勘定から見ると, とても危険なのですが(笑).


問題と解法

N04 では, 私はどのようにして問題を解決しているか. 実は, 問題が先というよりも, 答えが先にあることが多いのです. 当初はある問題を考えていて, ある解法を思いつく. ところが, その解法がその問題にはうまく適用できない. そこで, その解法は適用できる問題は何かと考える. その問題が見つかると, 初めからその問題を考えていたふりをして, 論文を書いてしまうわけです. だから, 当たり外れのすくない形で研究ができるわけです.

 ここで大事なことは, 研究活動全体の中で辻褄を合わせるということです.

 受験問題のように, 「一問一答」というスタイルでものを考えるのではなく, 日ごろからいろいろな問題を考えていて, 解法も考えている. 1つの問題に対応する形で解法を考えているのではなく, 多少大げさにいえば, 問題と解法を独立に考えておく. そうやって日ごろから考えていることが, 私の無意識の世界の中にいっぱい詰っていて, うまくペアリングできるものが見つかると, 問題が解けましたと宣言して, 論文を書くのでした. その結果として, 生産性の高い研究ができるのです.


F05 「ずるい!」とはいいません(笑). 論文生産のテクニックのようにも聞こえますが, ここでの根上さんの意図は「問題→解法」という思考パターンの相対化にあるはずですから.

 小学生のころ「なぞなぞ」がブームで, 小学生向けの雑誌には問題集が必ず付いていました. そのときなんでこんなに沢山問題が作れるのだろうかとはじめ不思議に思いました (大人はすごいなぁと). でもその時自分でも問題を作ってみて, その謎は解けました. 答えがはじめにあるのだと. この経験は「問題→解答」の相対化だったと思います.

 一方, 根上さんの「問題←解法」の話は, このa+u連載にとってさらに重要です. 連載の中でも繰り返しいってきた「方法からビジョン(目的)を描く」というのを, 根上さんの根源的な数学的思考のお話をもとにかってに発展させてみます. 「こんな世界を作りたいというビジョン(問題)」と「つくるためのプロセス(解法)」が いっぱい詰め込まれた潜在意識を創作の場として意識する. そこではビジョンとプロセスがくっ付いたり離れたりしながらカップリングされる. こんなところでしょうか. ここで相性が悪いとなかなか幸せにはなれない(笑).

 その建築物の使用目的や規模などの与条件(住宅とか美術館とか空港とか)と, 建築的な解決方法(超高層にする, シェル構造の大空間にする, 木造の2×4にする, アトリウムをつくる, ピロティにするとか……)には相性があります. 住宅に, 空港や野球場でよく見られるメガストラクチャーを採用しても, その建築的な解決方法の有効性が上手く発揮されない. 逆に弱点が出てしまう. すなわち, 上手く行かないのは解決方法自体が悪いのではなく相性が悪いからだという意味です. 適材適所. ただ, この相性は思い込みが強いものなので, 本当にそうなのかという問いかけは常に必要だと思っています.

 問題と解法の独立性は面白そうなテーマですね. 方法論というものが成立するのは, その辺を前提にしているからではないでしょうか. そして問題の存在によって解法を具体的に実行することができるし, その有効性を示すことができる. 実は今, 僕はこの連載を通じてこれまで独立して考えてきたデザインの解法(=方法論)とペアリングできる問題(=プロジェクト)を探している最中なんです.


N05 いまの話の中で, 「ビジョン」という言葉が気になります. 風袋さんが意図するところはわかりますが, 私は「ビジョン」という言葉を, 「プロセスなしに認知された内容」というような意味でよく使います. 言葉に対する個人的な思い入れの問題なので, そう大きな問題ではありませんが.

 それと, 「独立」という言葉は少々誤解を生んだかもしれません. 問題を探求する「行為」と解法を探求する「行為」が日ごろ独立に動いているのであって, 問題と解法が独立なのではありません. 問題解決というのは, 問題と解法が等価なものだと気づくことです. それは表現の違いであって, 同じものの2つの側面でしかない. 共通の原理を宣言的に述べるか, 手続き的に述べるかの違いにすぎません.

 問題は宣言的に述べられた命題(決着がつくまでは疑問文だが, 決着がつけば断定文になる. でも, 文である必要はない)で, 解法は手続き的な知識といったところです. そして, 両者が合致したところに「ビジョン」が生まれるといった感じです.

 風袋さんの連載にあった言葉で, 比喩的にいうと, 問題が「図面」で, 解法が「建築方法」で, 「ビジョン」がデザイナーの頭の中にあるイメージ, または, 建築物に対応します. 数学の場合には, 「建築物」に相当するものがないのですが, 建築の場合, 「ビジョン」に多義性がるあるところが面白いと思います. 建築物を「ビジョン」という言葉で表現するのはおかしいような気もしますが, デザイナーの中にある原理で実現されたのか, 物質界の原理で実現されたのかの違いだと思うと, 概念的にはそれほど差がないでしょう. 概念的な差がないけれど, 実現された「ビジョン」自体の差を問題にすることはきっと意味のあることだと思います.


F06 まず, 「ビジョン」は「こうしたいというイメージ」で 「プロセス」はそうなるための手続き」という程度の意味で使いました. ですから「ビジョン」には「建築物」は含んでいません. 問題が「建築を作るときの様々な与条件」で, 解法が「建築的な解決方法」で, 「ビジョン」がデザイナーの頭の中にあるイメージとすると僕はすんなり理解できます.

 独立の話は分りました. 問題を探求する「行為」と解法を探求する「行為」が独立して動くと言い換えます. ただ, 「問題と解法が等価」であるということになると, 混乱してきます. 「問題」と「解法」が合致したところに「ビジョン」が生まれるということは根上さんのいう「ビジョン」とは「解答」のことでしょうか? だとすると確かに建築物は「ビジョン」にあたりますが. なんだか変な感じがします. その理由は時間軸上で, 「ビジョン」→「建築物」だとこれまで考えていたからです. ですから明らかに用法が違うのだと思います.


N06 問題と解答が合致して, その後にビジョンが生まれるということではありません. 私の表現が誤解を生んだと思います.

 すでに書いたように, 「プロセスなしに認知される内容」が私のいうところの「ビジョン」です. だから, 「ビジョン」自体は, 問題や解答とは無関係に存在できるものです. 初めに, ビジョンだけあって, 「要するに, こういうことか」という理解だけが先行している場合もあります. また, 問題と解答というペアリングが完成すると, それに対応した「ビジョン」が見えるてくるというのもありだと思います.

 また, 風袋さんの言葉を借りれば, 「ビジョン」はAnother Worldに属します. 「建築物」は現実の世界に属します. そして, 数学者はAnother Worldに住んでいます.


コンピュータ・サイエンス

F07 では, Another Worldの住人である数学者の根上さんにとって, その世界はどういうふうに見えているのでしょうか? その世界の旅行者である僕にはまだ表面的なものしか見えていません. Another Worldは根上さんが『Web鼎談』でいっていた「究極の仮想世界」のようなものですから, 何でも可能なはずだと考えられているところがあると思います. たとえば4次元空間, 更に多次元空間をも操ることができると. そして, 住人の方はそれらをビジョンとして見ることができる. 一方, 旅行者はメディアを介してそれらに接することになります. たとえばコンピュータというメディアです. コンピュータグラフィクスの力を使って4次元空間を見た気になれる.

 ただ, 住人の方も自分の世界を全て知っているのではなく, やっぱりテレビを見て気が付くことも多くあるはずです. そして, コンピュータサイエンスという新しい基礎科学が, このメディアを能動的な世界探索機に変えていくのだと思います.


N07 「究極の仮想空間」という言葉は, コンピュータ・サイエンスが対象とする世界のことです. 数学者が住んでいる, もしくは, 見ている世界は決して仮想的ではなく, 実在します. それは, 何でもありなのではなく, 数学的原理に司られた秩序の世界です.

 その実在感を直観的な実在物に置き換えていくのは, それなりの訓練も必要だし, 時間も掛かります. まあ, 当初は洞窟の中のように, 真っ暗にしか見えません. 確かに, コンピュータの効果というのは絶大で, 個人的な直観力では気づかなかったものを見せてくれることがあります.

 実は, 今年, 修士課程を卒業する学生が4次元図形(正多胞体)を表示するソフトウェアを作ったのですが, その機能の1つとして, 4次元座標に関する遠近法的効果をつけて表示するというのがあるんです. その遠近法のもとで図形を回転してみると, 中と外が入れ替わるような感じの「絵」が現れて, びっくりでした. 4次元空間も見えると豪語していた私ですが, これには驚かされました. この現象も直観で捉えられるようになるように, 私自身の直観を拡張しようと決意したのでした.


F08 ここでいう「実在」についてですが, たとえば「10次元空間が実在する」というのと「宇宙人が実在する」とは, ちょっと違った意味に取れます. 後者は, その物質的な存在を想定して, 「実際に存在する」という意味だと思います. では, 前者の実在は, どういう意味でしょうか. ん-(自問自答). 解りました. おそらく, 哲学的な意味での「実在」ですね. 主観的に対して客観的に存在するものという.


N08 数学的な意味で存在するというとき, 観測者がいるか, いないかは問題にしません. したがって, 客観的か主観的かという形容は馴染まないと思います. 10次元空間が存在するということは, 数学的にでたらめなものではないという意味です. 数学的原理に従う矛盾のない存在は, 数学者にとっては「実在」するのです.

 それがどこに存在するかは, 全然問題ではないのですが, あえて比喩的に, Anothre Worldに存在するとか, 数学者の頭の中に存在するとか言いますが, 本来は, 現実の世界との比較や, 数学者という人間を参照することなしに, その存在性を語るべきものです.


F09 では, そうした数学にとって, コンピュータ・サイエンスはどんな意味があるのでしょうか?


N09 コンピュータ・サイエンスは, 数学的原理の一部を明示的に切り出してきて, その原理のもとで何が見えてくるかを研究する科学だと思います. また, コンピュータという機械は, 数学的原理を物理空間の中で発動させて, Another Worldまたは数学者の頭の中で展開されている現象を現実世界の中で見せてくるものです. でも, 今日的なコンピュータは, 数学者が開発しているわけではないので, 普通の人がイメージしている数学に便利なようにできています.

 例えば, クラインの壺をCGを使って, きれいに表現できるでしょう. そのときには, 数式を使って座標を生成したり, その座標にもとづいて点をプロットしたりするわけですが, 数学者の頭の中では, そういう座標とかはどうでもよいことです. (分野によっては, 座標が必要なこともありますが.)

 解析幾何的な発想から解放された形で, 図形を操作したくても, 現在のコンピュータはそれを可能にしてくれないし, 数式処理システムを開発しようとしている人たちも, それを目指して研究はしていないように思います. それは「数式処理システム」なのであって, 「数学処理システム」ではありません.

 数学にかぎったことではありませんが, 各分野の専門家たちの頭の中の世界の操作と対等な操作ができるような システムの実現方法を目指して, コンピュータ・サイエンスが進歩していってくれるといいと思います.


F10 根上さんの言葉を僕の問題に照らして置き換えると, 現在のコンピュータは「図面処理システム」なのであって, 「デザイン行為システム」ではないといった感じでしょうか.

 コンピュータ・サイエンスという言葉については, 『Web鼎談』の中で議論されているように, 「探求方法自体の研究」というイメージをもっていました. 方法の科学とでも呼べばよいのでしょうか. そして, このコンピュータ・サイエンス的なアプローチで建築をデザインするというのはどういうことだろう?  こうした興味に駆られ, 連載「建築とコンピュータ・サイエンス」はスタートしました. そしてこれまで, 他の分野の具体的な成果を参照するというよりは, もう少し抽象化した, その成果を生んだ方法, さらに言えば「発想のメカニズム」から学ぶという姿勢を強調してきたつもりです. たとえば, クラインの壷やメビウスの輪は, ダイアグラムとしては魅力的な対象ですが, その形をそのまま建築の表現にはしないということです.

 この対談でも, 数学的思考についてお聞きしました. それはデザインの分野でも重要な探究姿勢のようなものだったと思います. そこで, さらに一歩踏み込み, もう少し具体的な方法論につてお聞きしたと思います.


再帰的

F11 未来の状態が過去の状態を使って表現できるような, あるいは, 現在の状態をもとに計算して, 次の運動の仕方が分るようなメカニズムに興味をもっています. これは『第三の理』に出てくるハノイの塔3が示す「再帰的構造」の特徴だと思ったのですが. どうでしょうか? なんで惹かれるかというと, ものを作るときの感覚に近いからです. 作りながら考えるという. また, 自分の生き方そのもののような感じもするからです. だからきっと自分と相性が良い方法論に違いないと思います.


N10 ある意味で, 作品を作るということは時間を停止させる効果があります. 建築にしても, 建築物を作った時点で, 時間は停止して, デザイナーの過去の履歴とは無縁な存在になるわけでしょう. それが通例であるわけですが, それとある意味で拮抗する形として, ノンリニア編集とか, スクリーンを持ち出して, 常時変化する人の流れとクロスオーバーする建築物を設計しようという試みは面白いと思います.

 いずれにせよ, 過去と未来の関係性に着目することは, 「再帰的」とは, 若干ニュアンスが違うと思います. 過去の経緯を参考にして, 未来を決定するというのは, 普通「帰納的」というのだと思いますが. 「帰納的」というのは, 回帰するのが直接的であるのに対して, 「再帰的」には, すぐ過去に帰るのではなくて, 「また後で帰る」という意味が含まれています.

 例えば, ハノイの塔の解法の場合, N-1段のハノイの塔の解法はわからないけれど, とりあえず, それは後で考えることにして, それができたとすると, N段目の板を動かして…と考えるわけですよね. つまり未知な部分をそのままにしておくことを前提にして, 処理なり思考なりを進めていくという考え方が「再帰的な考え方」です.

 したがって, ある意味では, 過去の履歴, もしくは, それよりも低レベルの事柄を前提として事を進めることになるので, 風袋さんが言っているように, 過去の状態から未来を導くと言えなくもありません. でも, 明示的な過去ではなく, 仮想的に仮定された過去を前提とする点が「再帰的」 (また,後で帰る的)の心だと思います.

 明示的ではなく, 仮想的ではあるにしても, その存在自体は確信がもたれている過去. それを抱えているものこそが, 以前から私が言っていた「自分に潜在するメカニズム」なのだと思います. その「過去」の部分は空っぽな箱のようなものとしておいておく. その中身は, 後で辻褄があうように, 埋められるに決まっているから, その部分はほうっておいて, 先を考える. そして, ある程度, 事が固まったところど, おきっぱなしにしておいた箱の中を考える. で, ほら, やっぱり辻褄があった. こういう考え方が「再帰的」です.

 「辻褄」という言葉から, 「私が研究全体の中で辻褄が合えばよい」と述べたことを思い出しませんか? この発言と, 上で述べたことは通じるものがあります. また, トップダウン的な構造化プログラミングとも通じる考え方です. さらに, ノンリニア編集とも似ています. とりあえず作っておいて, 適当に細部を詰めていく. さらに, 風袋さんの「えいやー」とやってしまうというのにも似ています.

 いずれにせよ, 「再帰的」な発想を用いることによって, 巨大なプロジェクトや作品が作れるようになるわけです. 1,2,3を聞いて, 4番目を知る程度の発想で, ものを考えていると, 線形的にしか(比例的にしか, 1次関数的にしか)ものが大きくなっていきませんが, 再帰的な発想でことにあたれば, ものの拡大のスピードは指数関数的です. その結果として, 最終的には, きわめて巨大なものが完成するのです.

 中身が未知の箱を放置しておく技量がないと, しょぼいことしかできない. まあ, いずれ中身がわかるのだろうからと, その蓋をあけずに放置しておく. それが「再帰的」の真髄です.


F12 なるほど, 「仮想的に仮定された過去を前提とする」というのはいいですね. 不確かな世界では, そうすることでしかモノを作り続けることはできないと思います. 再帰的とはちょっと違うかもしれませんが, 画像のファイル形式のgifとjpegの再現のされ方の違いを連想しました. インターレースのgif画像は全体的に見えてくるが, jpeg画像は上から下に順番に再現されてくる. 明らかにされていくプロセスの違いです.


N11 「再帰的」の場合は, その真偽どころか, 仮定する命題自体が空っぽなのです. その感じを出すために「箱」という言葉を使いました.

 取りあえず, 箱にラベルだけつけて放置しておいて, できるところから着手していく. そして, 作業が終わった時点で, その箱の中に入っていくのです. その箱の中でも, できることだけ着手して, 必要だけれど, わからないことに, ラベルをつけた箱だけ用意しておく. これを繰り返すことによって, 箱が入れ子になって, 階層構造が生まれてくるのです. 風袋さんが言っているように, gif画像がモザイク状態からだんだんと精密な画像になっていく感じは, まさに「再帰的な考え方」が進行していく過程をよく象徴していると思います.


F13 では, 再帰的な考え方やイメージを建築のコンセプトに適用したら, どんな世界が現れるのでしょうか. まず, gif画像の例は, 解像度が変化する境界層の表現をイメージさせます. 無数の小さな穴が点在していて, それらがバラバラに開閉することで, じわーっと奥が見えてくるような. おっと, これはかなりHですね.

 あるいは, 3つあるハノイの塔の3番目に相当する建築を考えてみましょう. それは, 普段は何もない場所であり, 何らかの移動が生じるときに必要とされる場所ではないでしょうか.

 何だか, 「なぞなぞ」みたいになってきましたが, こうした場所は私たちのまわりに既に存在しています. たとえば仮設住宅, 古い家から新しい家に住み替える間だけの仮の宿です. 特に災害地のものは, 被災者が切実な時間を過ごす, 再起のための場所です.

 そして最後はやはり, 再帰的なデザイン・プロセスについて再び記述しておきたいと思います. わかりやすい例として, 多数のテナントが入居する, 巨大な複合建築の計画を考えてみましょう. 企画段階では, 仮想的なテナントを想定してデザインを進めるケースが多いと思います. さらに,その仮想的な状態で建設も進行してしまう. なぜならば,現実のテナントは, その計画なくして,出店の是非を判断できないからです. そして,入居が決まると,そのスペースが改めてデザインされていくことになります.

 ここで,仮想的に仮定される対象をもう少し抽象化し, これまで明示的であった,デザインの様々な方法に拡張することもできるはずです.

 たとえば,「平面計画」をやらずに「断面計画」を進めたり, 「形態」うぃ決めずに「色彩」を考えたりするようなこともあるでしょう. つまり,「X」をもとにして「Y」を考えるというやり方を作り出す「思い込み」から 自由になることです. そのために,プロセスが持つ階層構造を強く意識する必要があるのだと思います.

 明示的な根拠なしに, それでも仮想的に仮定された過去を利用して制作し続ける. その結果,意味のある組織体が編成されていくというプロセス. それは,まさに今日,「建築をつくる行為」そのものではないでしょうか.

 根上さんとの対談を通じて, コンピュータ・サイエンスに基づくデザインが可能にする世界, その一端が垣間見られた気がします. 私たちは幸運にも, そうしたデザインの試みを, 初めて実行することができる時代に生きているのではないでしょうか. 今回はご協力ありがとうございました.


■本稿は, 根上氏から送られた一万字を超す貴重なメールをもとに, 紙面の制約に合わせ, 風袋の責任で編集された.

■原註
1 --- 『第三の理 ―ハノイの塔修復秘話』 根上生也著, 1999, 日本評論社

2--- 『Web鼎談』 http://ngm2.ed.ynu.ac.jp/ (「数学セミナー」誌に連載,1999.04-2000.03,日本評論社)

3--- ハノイの塔の問題. 3本の棒(1/2/3)が固定された台と,何枚かの大きさの違う, 中心に穴の開いた板がある. ここで,すべての板を棒1から棒2に移動するというパズル. ただし,板は1枚ずつ移動し,小さい板の上にそれよりも大きい板を積んではいけない.

■協賛 本連載にあたり下記の企業のご協力を頂いた.
・日本SGI株式会社
・アビッドジャパン株式会社ソフトイマージビジネス


●追記1  風袋宏幸(フウタイヒロユキ)氏は, フータイアーキテクツ一級建築士事務所の代表を務め, 建築,インテリア,アートなど,空間デザインのお仕事をする一方, デジタルハリウッド,慶應大学SFCで非常勤講師をなさっている方です.

2000年3月2日,根上の研究室にて撮影

●追記2  このハイパーテキストは, 風袋氏から頂いた連載の原稿をもとに, 根上が編集したものです. 私(=根上)の書きなぐりのメールを大変要領よくつなぎ合わせて, 軽快な対談に仕立て上げ,原稿を作成してくださった風袋氏のご尽力に対して, この場を借りて感謝いたします.


negami@edhs.ynu.ac.jp [2000/5/12]