離散数学は, 有限的で離散的な構造を扱う数学であり, 無限と連続で象徴される従来の数学とは対峙する印象がある. コンピュータ・サイエンスの発展に伴い, 離散数学の重要性が認知されているものの, 旧来の学校数学はそれに対応していない. 本稿では, 応用的な側面よりも, 教育的な側面に重点を置いて, 離散数学の特性を考え, 学校数学への導入の在り方を提言する. 標語的に言うと, 離散数学は「図を描き, 簡単な計算をして, 言葉で論証する数学」である. 離散数学の導入は, 日本の学校数学に欠けているものを補完する効果があるだろう.
まず, 次の問題を考えてください.
問題1. 図1の線の部分をたどって, すべての黒丸と白丸をちょうど1回ずつ通り, もとの位置に戻ることはできるでしょうか?
図1.すべての丸を通れるでしょうか?
この問題を大学生にやらせてみると, 彼らの中に, 次のような2つのタイプがいることがわかります. 第1のタイプは一生懸命に場合分けをして, その結果を解答用紙に書きまくります. でも, 場合分けが多すぎて, 最終的な答えには到達しません. 一方, 第2のタイプは何もせずにじっとしています. とはいえ, 彼らは怠けているのではありません. どちらかというと真面目に勉強をするタイプなのですが, 成す術なく固まっているのです. はたして, あなたはどちらのタイプでしょうか?
私は, 離散数学と教育の関係を語るとき, この問題をよく引き合いに出します. もちろん, それが離散数学の典型的な問題だからですが, それよりも, 重要なのは, この問題を通して, 今日の日本の数学教育に欠けているものが浮き彫りなることです. そもそも, この問題は数学なのでしょうか? それはパズルでしかないのでは? そう思う人も少なくないでしょう. そういう人がいるのも, その欠落の証拠です. その欠けているものとは, 何なのでしょう….
いずれにせよ, 「離散数学」という言葉は, 日本の教育界にはあまり普及していないようです. 例えば, 「線形代数」と聞けば, 数学教育に関係する人たちならば, ベクトルや行列の計算に始まり, ベクトル空間や線形写像の話へと展開していく一連の数学の流れを想起するでしょう. しかし, 離散数学となると, そうはいかない. そういう状況下で, 離散数学と教育の関係を正しく理解してもらうことは, なかなか難しいことです. それを覚悟の上で, 離散数学とは何なのかを手短に解説しておきましょう.
単純に, 離散数学が包括する研究分野を挙げると, グラフ理論, マトロイド理論, デザイン理論, 数え上げ理論, 離散幾何, 組合せ最適化などがあります. その中でも, グラフ理論が大きな部分を占めています. 離散数学を組合せ論と同じものだと言う人もいますが, 多少のニュアンスの違いもあり, 私は両者を異なるものと捉えています. 個々の分野の解説は省略しますが, いずれも有限的な方法で規定できる構造を扱う数学だと見なすことができます. そのため, 離散数学は, 「無限」と「連続」で象徴される従来の数学と対峙する新しい数学だと言われることもよくあります. (大昔には「有限数学」という言葉もありましたが, それはもはや死語ですよ.)
実際, 離散数学の重要性が認知されだしたのは, 20世紀後半になってからでしょう. それは, 巨大な有限の取り扱いを可能にしたコンピュータの登場と密接に関係しています. 離散的なデータの処理やネットワークの設計など,
コンピュータ・サイエンスには, 離散数学的センスを必要とする分野がたくさんあります. そのため, 離散数学は情報科学を専攻する大学生の必修科目になっているのが通例です.
とはいえ, 「離散数学」という単元は現行の学校数学の中にはありません. あえて, 最も近いものを挙げれば, それは高校数学における「個数の処理」です. その単元では, 数列的な理解をせずに個数の処理をすることが目的になっています. でも, 多くの高校の先生たちは「個数の処理」を「数列」の前座と捉え, 軽く扱っているようです. また, 「個数の処理」の単元を「確率・統計」の下請けとして「場合の数」を求めるための予備練習をするところだと捉えている人も少なくないでしょう.
確かに, 現行の学校数学に限定するかぎり, 離散数学的な内容はいずれ他の分野に吸収されてしまいます. しかし, 初めに示した問題を思い出してください. それは「数列」の問題でもなければ, 確率・統計の問題でもありません. もちろん, 「個数の処理」の問題でもありません. 離散数学は既存の単元とは独立に存在すべきものなのです.
と言われても, 離散数学のイメージがつかめない人も多いでしょう. その実態を知るためには, 参考文献に挙げた離散数学関連の教科書[1,2,3,4,5,7,8]を少なくとも1冊は読み上げてもらう必要があります. それではなかなか埒があかないので, 私は標語的に「離散数学とは, 図を描き, 簡単な計算をして, 言葉で論証する数学である」と言うことにしています. 以下で示す問題例を見た上で,この標語の信憑性を判断してください.
今度は, いくつかの問題例を示しながら, 離散数学のイメージ作りをしていきましょう. 個々の問題の答えを理解するだけでなく, その教育的な意義も考えていきます.
問題2. 100頂点の完全グラフを描きなさい.
まず, 問題にある「完全グラフ」について説明する必要がありますね. 一般に, いくつかの点とその適当な組を線分で結んで得られる図形をグラフと呼びます. さらに, グラフ理論の言葉に従って, その点のことを頂点, 2つの点を結ぶ線分のことを辺と呼ぶことにしましょう. 通常, 頂点は多少大きめの黒丸や白丸で表わします. 例えば, 図1の図形もグラフです. 特に,頂点の可能な組合せをすべて辺で結んで得られるグラフが完全グラフです.
ということは, 頂点が100個もある完全グラフの辺数は, 100個から2個選び出す場合の数と一致します. その値は4950です. そんなにたくさんの辺を手作業で描くのは大変ですね. それならば, コンピュータでプログラムしようと考えるのが自然です. でも, コンピュータのプログラミングの指導に専念してしまうと, 数学教育ではなくなってしまいます….
そこで, 思い切って, すでに作成されているプログラムを利用することにしましょう. そのプログラムは, 図2のように, 好きな数字を入力すると, その数を頂点数とする完全グラフを描いてくれるものとします. やはり, 頂点はきれいに正多角形状に並んでもらいましょう.
図2.完全グラフを描こう!
ここまで準備ができていれば, 問題2に答えるのは簡単です. そもそも問題として意味がないとも思えるでしょう. 確かに, 完全グラフを描きっぱなしにするのなら何の意味もありませんが, 実際に上のようなプログラムで描いていると, いろいろな発見があります.
まず, 100頂点の完全グラフを描いてみると, 辺が重なって真っ黒な大きな円になってしまいます. それを見て一回笑っておきましょう. それならばと, 99頂点の完全グラフを描いてみると, やはり真っ黒になってしまいます. でも, 「さっきとは何かが違うぞ」と言うと, 子供たちなら, 即座に真っ黒な円の中心に白い点があることを発見するでしょう. その白い点を仮に「完全グラフの穴」と呼ぶことにします.
私の経験では, 中高生たちをこの状態で放っておくと, 98の場合, 97の場合と入力する値を下げていって, 完全グラフの穴がどうなっていくかを調べていきます. 「どういうときに穴が空くのか?」と聞かないと, いつまでもそれを続けています. でも, その実験のおかげで, 子供たちは私の質問に即座に答えてくれます. 偶数のときには穴が空かない. 奇数のときに穴が空く.
そういう現象が起こる理由も簡単です. 偶数角形のときには円の中心を通る対角線があるので中心の点は黒くなり, 奇数角形のときには, そういう対角線がないので, 穴が空くのです. 言われてしまえば当たり前のことですが, こういう事実にすぐに反応できない大人たちが多いのには驚かされます.
ところで, 頂点数が少ない完全グラフを描くだけで, 完全グラフの穴を発見することができるでしょうか? もちろん, そういう完全グラフに対しても, 穴の法則は成立します. でも, 99頂点の完全グラフの中心にポツンと空いた穴ほどのインパクトがなく, 完全グラフの穴を探求するという発想には至らないでしょう. コンピュータを使って頂点数の大きなグラフを描いたからこそ, 穴の発見に至ったのです. 数が少ないところでいろいろと試してから一般形を類推しようという指導がよく行われていますが, そういう指導では完全グラフの穴のような現象は見落とされてしまうでしょう.
また, 具体的なものほどわかりやすいと思い込んでいる人がいます. でも, 4950本も線の引かれた具体的な完全グラフの姿はわかりやすいでしょうか? 頂点が100個あって, そのすべての組が辺で結ばれているのだという抽象的な理解の方が断然わかりやすいと思います. 具体的なものをよしとする人たちは, 具体的なものが簡単に思える世界しか見ていないのでしょう. とかく抽象的な考え方は難しいものと捉えられていますが, 離散数学では, 手頃な対象を相手に抽象的な考え方のよさを体験することができます.
この問題をここで終わりにしてしまうと, 小・中学生レベルの問題にとどまってしまいますが, 高校生レベルの問題に姿を変えることもできます. 例えば, 「完全グラフの穴の直径」を考えるのはどうでしょうか. これは三角関数の練習問題になります. その直径がコンピュータの画面の1ドット分になる場合を推定して, 頂点数がどのくらい小さくなると, 穴がピンポイントでなくなるかを予測するというのもおもしろい問題です. 逆に, ピンポイントも潰れて, 頂点数が奇数でも真っ黒になってしまうのはいつでしょうか?
問題3. ペテルセン・グラフの形を復元しなさい.
図3.ペテルセン・グラフの形を復元しよう!
問題にある「ペテルセン・グラフ」は, 図3の左に示したきれいな形のグラフのことです. 実は, 右のグラフも頂点と辺の関係を考えると, ペテルセン・グラフと対等なものになっています. (グラフ理論では「2つのグラフは同型である」と言います.)つまり, でたらめに配置された頂点の位置を修正していくと, 右のグラフをきれいなペテルセン・グラフの形に変形できるのです. その変形を実行せよというのが, この問題の意味です. もちろん, マウスを使って頂点の位置を移動し, その変形を実行できるようなコンピュータのプログラムが用意されているものとしましょう.
このパズルのような問題を大学生にやらせてみると, 試行錯誤を繰り返すばかりでなかなかできません. 中には, その絵を紙に書き写して, じっと眺めている人もいます. 中高生にやらせてみると, やんちゃな生徒ほど, 答えにいたるのが早いようです. それは試行錯誤の回数が多いからでしょう・
確かに,試行錯誤を繰り返し, 答えに至ったら終わりという扱い方をすれば, この問題はパズルでしかありません. しかし, 離散数学をマスターしている者と, していない者とでは, その対処の仕方には歴然とした差があります. 例えば, 私なら, 次のような手順で, 手早くペテルセン・グラフの形を復元することができます.
まず, ペテルセン・グラフの中に五角形があることに注目します. 右のグラフもペテルセン・グラフなのだから, その中にもその五角形に対応する部分があるはずです. その隠れた五角形を探すのは, それほど難しいことではありません. それが見つかったら, その5個の頂点を周囲に移動して, きれいな五角形を作ります. そして, 五角形に乗っていない辺を放射状に配置して, 長さを調整すると, 残りの5個の頂点が自動的に星型になって, 復元が完成します.
では, 離散数学をマスターした者と, していない者の差は何なのでしょうか?それは, グラフが持っている「構造」に着目するという態度があるか, ないかです. 日頃から, いろいろなグラフの絵を描き, その構造を言明する習慣が身についていれば, 左のペテルセン・グラフを見れば「五角形がある」という言葉が自ずと意識に上るでしょう. その事実が問題解決の糸口になります.
もちろん, 離散数学を知らなくても, その五角形は誰にでも見えます. しかし, それを意識的に言葉にするという態度がないと, それを方略として行動しようという発想が生まれません. さらに, 「ペテルセン・グラフは対称的だ」という事実が, 問題解決を早めています. 極めて対称性が高いので, どの五角形を選んでも, 目的の形に復元できるのです. したがって, 「構造に着目する」, 「それを言葉で表現する」という指導をすれば, こういう問題に手早く対処できる生徒たちが育成できることになります.
しかし, パズルが手早く解ける生徒を育ててどうするのだと疑念を抱く人もいるでしょう. でも, この問題はほんとうにパズルなのでしょうか?パズルだとしたら, 動的に図形を変形したり, その過程で保存される構造に着目したりという能力は, 人間にとって不必要なものなのでしょうか?
確かに, 従来の学校数学の中では, 動的な図形の理解を必要とする問題設定は難しいでしょう. また, 教科書とノートと黒板という取り合わせでは, 図形の動的な操作は, すべて頭の中で行わざるをえません. その念頭操作は, 個人的であり, 孤立し, その存在を表面化させることが困難です. しかし, コンピュータを利用することで, 図形の動的な操作を自分の目の前で, さらには人に示しながら行うことが可能になります.
コンピュータの登場により, 作業領域をノートと黒板に限定した教育では指導が困難だった能力の育成が可能な時代になったのです. コンピュータが広く社会で利用されるようになれば, そういった能力を必要とする機会も増してくるのではないでしょうか….
問題4. グラフが作れる数列はどんな条件を満たしますか?
図4.グラフが作れる数列を探そう!
この問題も図4のようなコンピュータのプログラムがあることを前提とします. 画面の上に並んでいる小さな窓に数列を入力して, 判定 を押すと, その数列に対応するグラフがあれば, それを表示して, それがなければ, 画面には「グラフ的ではありません」と表示してくれるものとしましょう. その数列とグラフの対応は, 図を見ればわかるでしょう. それぞれの頂点から出ている辺の本数を並べたものが, その数列になっているのです. いろいろな数列に対して,そういうグラフが作れるかどうかを調べるのが,この問題の意図です.
グラフが作れるときには, その数列をグラフ的であるということにしましょう. 例えば, そこに並んでいる数の個数以上の値を含む数列はグラフ的ではありません. それに気づけば, すべて異なる数からなる数列はグラフ的でないこともわかります. さらに, 奇数を奇数個含んでいる数列もグラフ的ではありません. それと同値なことですが, グラフ的な数列の総和は偶数になっています. また, 個別な数列に対して, これはグラフ的ではないと論証できる場合もあるでしょう.
生徒たちに予想を立てさせ, それを支持しない者にはその予想の反例を探してもらうことにすると, 1つのオープン・エンド的な探求活動になります. それは, 既習の数学的概念を自分の言葉に乗せて表明するという行為を伴います. また, 用語を指導しないにしても, 「必要条件」や「十分条件」の意味を理解するためのよい経験になるでしょう.
さらに, よいことは, どんな生徒もこの問題の正解に至らないという点です. もちろん, グラフ理論を専門的に勉強した人なら, 数列がグラフ的であるかどうかの判定法を知っているはずです. その判定法があればこそ, 上のようなプログラムが実現できるわけです. しかし, 天才でないかぎり, 中学生や高校生が独自にその判定法を発見できるとは思えません. もちろん, 先生もそれを知らない. でも, コンピュータはそれを知っている….
こういう状況下では, 俗に「数学ができる」といわれる生徒がいち早く正解に到達して終わりという構図が崩れることになります. できる生徒が提案した予想でも, できない生徒がその反例を探し出して, その予想を打ち砕く可能性もあるわけです. となれば, 通常の数学の授業とはかなり質の違う授業が実現できると思いませんか? そうは思うけれど, 下克上ありの授業はいうやだと思うのなら, あなたは数学嫌い作成委員会のメンバーですね.
さて, ここで紹介した問題はコンピュータの必要性を支持する例題ばかりでした. さらに, そのような問題を知りたければ, 私が作成した次のホームページを覗いてみてください. 題して「インターネットで学べるグラフ理論」. マウスを使っていろいろな問題が体験できます. 実際, 上で示したプログラムもその一部です.
最後に, 初めに紹介した問題1の解答を示しておきましょう. こちらは, コンピュータでなくても対処できます. また, 論証指導を目的としているので, 高校生レベルの内容になっています.
まず, 問題1と向かい合ってすべきことは実験です. 問題にある条件を守りながら, いろいろな経路を試してみましょう. その試行錯誤を繰り返すうちに, どうやらだめそうだという感触をつかむはずです. さらに, 次の2つに気付いてほしい.
(2) 黒丸が13個,白丸が12個ある.
これに気付けば, 次のようにして, 問題どおりの経路が存在しないことが証明できます.
仮に, ある黒丸から出発して, 同じところを2回通らずに, そこに戻ってこられたとしましょう. すると, その経路上には, 黒, 白, 黒, 白, …と, 黒と白が交互に現れます. ということは, その経路に沿って,黒と白を順に組にしていけば, それらが同数ずつ存在していることがわかります. ところが, 黒丸は13個, 白丸は12個だから, その事実と矛盾します. したがって, 背理法により, 目的の経路は存在しないことになります.
言われてしまえば簡単なことですが, 離散数学を習う以前にこのような解答ができる大学生は皆無に等しいでしょう. それはなぜかというと, 上で挙げた2つの事実を言葉で表現しようとする態度がないからです. 黒, 白と交互に通るという事実は実験の過程で明らかになるのに, それを言葉にしないので, 論証の根拠とするどころか, 意識に上らないのでしょう. さらに, 個数を数えるという最も基本的なことさえ, 彼らは忘れているのです. そこから, 算数・数学の勉強が始まったと言うのに….
これは, ペテルセン・グラフの形がなかなか復元できないのと同じ構図です. でも, いったん離散数学を勉強すれば, この程度の問題は簡単に解けるようになります. もちろん, 教科書に書かれている定理を覚えるだけではだめ. 個数を数える, 状況を言葉で表現する, などの基本的な手法を意識的に利用できればOKです. さらに習熟した者なら, 黒丸と白丸の区別がなくても, 自発的に色分けを試みるでしょう. また, 黒丸と白丸の個数が等しければよいのだろうかと, 他のグラフで同じ問題を試みるでしょう. 上級者なら, 頂点を3色で色分けして, その個数の差異を根拠として論証できる問題を探そうとするかもしれません. ただし, その答えは, そう簡単には見つかりませんよ….
このように, 離散数学の問題は, 必然的に問題づくりの基本問題になってしまいます. 作られる問題も, 単に基本問題の数値を変えてみただけというような, 機械的な変形ではなく, いろいろな方向に発展します. そうなるのは, グラフという手頃な対象を相手にしているからでしょう. 自分自身の創意工夫によって, いろいろな形のグラフを描くことができます. また, 頂点や辺に色を塗る, 個数を数える, グループ分けする, たどってみる, 変形してみるなど, グラフに対して, 様々な手法を繰り出すことができるのも, その理由の1つでしょう. そのいずれの手法も, 高級な数学を学んだ末に習得できるものではなく, ある意味でプリミティブな数学的技能です. その事実も重要です.
これで「図形を描き, 簡単な計算をして, 言葉で論証する」の意味がわかったでしょうか? 上の例では, 必ずしも人間が図を描くわけではありません. でも, 初等幾何に登場するお行儀のよい図形たちや, 1次元に限定された線分図と違って, その図は子供たちの創意工夫を許します. また, 上の例では, 簡単な計算どころか, 「12 < 13」以外には計算らしきものが登場しません. そして, すべてが言葉で説明されています.
きっと数式計算に浸りきった学生たちは, こういう離散数学的な問題に出会ったら, いったい解答用紙に何を書けばよいのかと戸惑うことでしょう. 単に, 自分の考えを日本語で書けばよいだけなのに, そういう行為は数学ではないと思っている人が実に多いのには困ったものです. これは論証指導を平面幾何だけに幽閉してしまったせいではないでしょうか. おまけに, その論証は単に条件をチェックするだけで, 上の例のような構造の「整合性」を議論するという観点がありません. 世間の人たちは, 数学に「論理的にものを考える能力」の育成を期待していますが, 平面幾何でしか通用しない論証指導に終始しているだけでは, その期待に応えられないと私は考えます. 日本語で状況を説明し, 日本語で論証する. 離散数学の導入はそれを可能にしてくれるでしょう.
初めに述べたように, 離散数学の重要性は, コンピュータ・サイエンスの発展に伴って, 認知されてきました. そのため, 仕事の割り当て問題や最短経路の探索など, 応用的な側面に重点を置いて, 離散数学が紹介されることがよくあります. しかし, 前節で示した問題例は, いずれも何かに応用されることを意図したものではありません. また, どの問題を解くにしても, 数式の計算や平面幾何の論証のような形式的な技能とは異なる能力を必要とします. その能力とは何なのでしょうか?
私は, その問いの答えは「構造を理解する能力」だとしています. 単に, 試行錯誤の繰り返しと偶然の結果として問題を解決していたのでは, それはパズルでしかありません. もちろん, 試行錯誤も問題解決の1つの方略ですが, それに終始するような指導は教育としての価値を失います. (「試行錯誤」に関しては文献[10,11]参照)しかし, 上で示した問題例では, 問題となっている対象の構造に着目し, その構造を(声を出さないとしても)言葉で表現するという態度が重要です. その態度を育成すれば, 子供たちに潜在している構造を理解する能力が自ずから表面化します.
とはいえ, 「構造」とは何でしょうか? 例えば, 現代数学には, 代数構造, 幾何構造, 位相構造など, いろいろな構造が登場します. しかし, ここでは, 「構造」を現代数学の中で形式化されたものではなく, 人間が本来認知の対象としいるものと捉えることにします. そもそも, 「構造」という言葉を単独で定義することはあまり意味がありません. 「何でもないわけではない状態」だと言えなくもありませんが, あくまで, 「構造」は「これこれの構造がある」という使い方をすべき言葉です.
何かを見て, そこに何かを発見すれば, そこには何らかの構造があります. そして, 構造を理解する能力は人間が本来持っている能力です. つまり, それは, 誰もが持っていてもおかしくない能力です. そのため, 離散数学的な問題の価値を議論するとき, 次のような2つのタイプの思い込みを持った人たちと対決する羽目になってしまいます.
第1のタイプは, 構造を理解する能力が当たり前すぎるので, そういう認知活動が存在していること自体に気づかず, 離散数学の問題がすべて試行錯誤と偶然のひらめきによって解決されると思い込んでいます. その結果, 彼らは, 離散数学の問題はパズルであって, 数学ではないと主張するわけです.
第2のタイプは, 構造を理解する能力が人間に本来備わっているものなら, わざわざ教育するまでもないではないかと主張します. この主張自体は論理的には正しいでしょう. でも, 現状の学校数学では, 生徒たちは, 最終的に問題解決を形式的な操作の中に埋め込むことを仕込まれて, 構造を理解する能力を活用する場を与えられません. その結果として, 彼らは本来持っているはずの能力を使うことを忘れてしまい, 初めに紹介した大学生たちのように, 離散数学的な問題には手も足も出せない状態に陥っています.
はたして, これでよいのでしょうか? もちろん, よいわけがありません. 離散数学的な問題を世の中から一掃してしまえば, 誰も自分の無力さを感じずにすむでしょう. しかし, それは時代が許しません. 「マルチメディア」という言葉で象徴される21世紀においては, コンピュータを初めとする様々なメディアに触れることによって, 私たち人間の能力が紙と鉛筆の操作に限定されたものではないことを思い知らされるでしょう. それを不幸と思うのか, それとも, 今まで隠蔽されていた人間の能力が解放されると思うか….
もちろん, ここでは後者の立場をとります. そして, 私は「構造の理解」をキーワードとして数学教育を再構築することを提唱します. その実現のために, 離散数学が大きく貢献することは言うまでもありませんね.
しかし, 離散数学を単元の1つとして学校数学に導入するだけでは, あまり効果はありません. 構造の理解を促進しつつ, 数学的技能を身につけていけるようなカリキュラムを実現するには, 学校数学に「道具としての数学」と「実践の場としての数学」という二重構造を与えることが必要だと, 私は考えます.
その「道具としての数学」は, 従来学校で教えてきた数学だと思えばよいでしょう. 微積分や確率, 統計など, 自然科学や工学, 社会科学の道具として活用されている数学をイメージしてもかまいません. 実際, 世の中の大多数の人たちは, 数学とはそういうものだと思っていますよね.
しかし, それは数学を志す者たちが心に抱いている数学とはどこかが違います. 数学は諸科学の道具でしかないのか. 数学にだって数学固有の存在理由があるはずだ. そう思うと, 道具として存在している数学以外の数学があってしかるべきです. だからといって, 数学の専門家しか楽しめないような数学を学校数学の中に導入するわけにもいかない….
そこで登場するアイディアが「実践の場としての数学」です. そして, その役割を離散数学が担います. 例えば, 「完全グラフの穴」の問題を思い出してください. その問題は離散数学の枠組みの中から生まれたものですが, 三角関数を活用する問題へと発展しました. もちろん, それはただの例でしかないので, 私の提言を納得させるだけの説得力を持っていないでしょう. しかし, 離散数学的な現象の中には, 代数, 幾何, 解析, 確率, コンピュータを駆使することで解析できるものがたくさんあります. 数理現象は微分方程式や確率モデルで解析するものと決めつけていたら大間違いです.
離散数学の専門家たちが発見した現象やその解明方法を子供向けにアレンジすれば, 小さな数学が道具として活用できる実践の場が提供できるでしょう. そして, 数学が数学の中で役に立つという構図が実現します. これで生徒たちは「数学は何の役に立つのか?」と訴える必要がなくなるでしょう. なぜなら, 数学の授業中で, 数学が役に立つところを体験することになるからです.
もちろん, 依然として実生活には役に立たないという印象は完全には解消されないでしょう. しかし, 自分自身が認知した構造を表現したり, それに根拠を与えたりすることに数学が使われるとしたら, 生徒たちはどんな気持ちになるのでしょうか?「構造の理解」をキーワードとした数学教育は「自己実現・自己表現」につながる教育へと発展する可能性を持っています.
前節では, 「構造の理解」に焦点を当てて離散数学の効用を解説しましたが, その効用は他にもたくさんあります(文献[9]参照). しかし, それを示すまでもなく, 離散数学を学校数学に導入すると, 数学の授業がかなり変貌してしまうことは想像できるでしょう. それをよしとするかどうかは意見の分れるところですが, 離散数学の中に従来の学校数学に欠けているものが含まれていることは否定できないでしょう. 例えば, 課題学習のために作成された問題の多くは離散数学に属します. それは通常の単元では教えきれない数学の問題が存在することの証拠です.
いずれにせよ, 現状では, 離散数学に批判的な人は少なくありません. 例えば, 数学の専門家と称する人の中にも, 離散数学は体系化されておらず, 陳腐な数学だと言う人がいます. でも, それは私が学生だった20年以上昔から聞かされてきた言葉です. その時間の経過を無視して, 同じことを言っている人の話を信じてよいのでしょうか?
そういう思い違いによる批判はともかくとして, 学校数学に導入するという観点で, 離散数学が体系化されていないというのは事実です. したがって, 学校数学に離散数学を導入するためには, 離散数学の専門家たちが, 中高生向けの離散数学の教科書を作る努力をすべきでしょう. (文献[6, 7, 12, 13]参照)
最後に, 教員養成系の大学生に離散数学の授業を試みたときに書いてもらった感想文の中でとても印象的だった言葉を記しておきます. それは「今の数学は頭の固い僕でもできるけれど, 離散数学は頭がよく回転しないとだめなんですね」と言うものです. そこで問題です. 本稿に書かれていることを参考にして, 彼の言葉の意味と彼の誤解を指摘してください. この問題に正解するかいなかは, あなたの離散数学に対する理解度に比例します….