第三の理/第9話
ハノイからの手紙

 あれから何日が過ぎたのだろうか. 突然ベトナムに帰国したドイモイ君から 1 通の手紙が届いたのだった. その封筒には,彼の直筆と思われる日本語の手紙と, 彼の部屋で撮ったと思われる彼の腰から上の写真が入っていた.

 ドイモイ君は,短期間ではあったが,日本の文化を精力的に学び, いろいろな日本の習慣を心得ていた. そのため,彼の手紙の頭書きと,終わりの部分には, その季節にあった挨拶と,締めの言葉が書かれていた. しかし,私自身がそういう季節感や挨拶事に疎いので, 彼が書いた立派な手紙の書き出しと終わりの部分の正確な文面は覚えていない. いずれにせよ,その手紙の内容は概ね次のとおりである.

やはり,ハノイの塔が崩れていました. 先生の英知をもって,その崩れたハノイの塔を修復する術を考え出してください.

 要するに,その内容は謎のハノイ氏の電子メールと同じではないか! そして,ハノイ氏といい,ドイモイ君といい, 私にどうしろというのだ.

 すでに述べたように, ドイモイ君も数学に関する造形が深く, ある意味では私と同族の数学者だと解釈できる. その数学者のセンスで,ハノイの塔の問題を問うているのだろうか? しかし,そのことのためだけに,こんな手紙を書いたのだろうか? それに同封されていた写真は何を意味しいるのだろうか? 単なる挨拶の手紙なのだとしたら, もうちょっと気の聞いたことを書いてもよいはずである.

 あまり多くの回数ではなかったにしろ, 私とお茶飲み話や教育論をぶつけ合った間柄のドイモイ君が, お決まりの台詞を書き並べた手紙をもらって私が喜ぶと思っているとは思えない. 私に関心のない部分を取り去った内容が, 単にこれだけというのはどういうことなのだろうか?

 そんな思いで,その大事な部分を繰り返し読んでみる. やはりハノイ氏のそれと同じ内容だ. 違いを見つけるとすれば, その書き出しの“やはり”という言葉である. その“やはり”が妙に気になるのだった. だって,外国人が“やはり”という日本語をこのように使えるだろうか.

 “やはり”はやはり“やはり”なのである. 彼の中に,私と共有する思いがあって, それを再確認し合うために,彼は“やはり”と言ったにちがいない. では,その共有事項とは何か? それは私が当初,単なるパズルの名前だと思っていたハノイの塔が 本当にハノイにあって, それが崩壊したのではないかという疑問である.

 ドイモイ君自身もハノイの塔の存在は言い伝えだと言っていた. それに,本当にハノイの塔がハノイにあるとは思っていないと言っていた. しかし,ハノイ氏にまつわる会話のあるフレーズがドイモイ君の何かを変え, ハノイの塔の言い伝えを私たちに話しだしたのだった. もはやそのフレーズを確認する術はないが, ドイモイ君の話を聞いていた私も田沼君も, ひょっとしたらハノイの塔はハノイに本当に実在するのではないかと 期待していたような気がする. その期待に対するドイモイ君の応答が, “やはり”の一言に込められているのではないか?

 きっと,ハノイの塔は実在するにちがいない. そうだとすると,そのハノイの塔の崩壊はいったい何を意味しているのだろうか?

  「先生,凄いことになってきましたね. ハノイの塔が本当にあるのだとすると….」

  「ですねぇ」

 ドイモイ君からの手紙を見せ, 私の思い込みを伝えると, 中本君も田沼君も神妙な顔になってしまった.

  「そりゃ,凄すぎるだろう.ハノイの塔に関する逸話はいろいろあるけれど, 本当にハノイの塔が実在するなんて聞いたことないものね. でも,まあ,それは私の期待であって, この文面からハノイの塔の実在を断定できるとは言えないだろう.」

  「そうですね.」

  「そうさ.私たちは数学を志す者なんだぞ. 冷静に事に当たらなくては….」

  「ですね.」

 そうである. 自分の口から出た言葉に,自分が納得させられている. 思い込みや期待を排して,冷静にかつ論理的に結論を引き出そうではないか.


つづく

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negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/6/26]