第三の理/補足●
学校数学改造プロジェクト

 私の学校数学改造プロジェクトの骨子は, 「道具としての数学」と「実践の場としての数学」という 二重構造を実現することである. これによって,数学が数学の中で役に立つという構図が作られる.

 その「道具としての数学」は, 従来学校で教えてきた数学だと思えばよい. 微積分や確率,統計など, 自然科学や工学,社会科学の道具として活用されている 数学をイメージしてもよい. 実際,世の中の大多数の人たちは,数学とはそういうものだと思っている.

 しかし,それは数学を志す者たちが心に抱いている数学とはどこかが違う. 数学は諸科学の道具でしかないのか. 数学にだって数学固有の存在理由があるはずだ. そう思うと,道具として存在している数学以外の数学があってしかるべきである. だからといって, 数学の専門家しか楽しめないような数学を 学校数学の中に導入するわけにもいかない. そこで登場するアイディアが「実践の場としての数学」である.

 大胆に提言してしまえば, その「実践の場としての数学」の役割は, 「離散数学」が担う. 離散数学はまだあまり認知されていないので, 私の提言の主旨がうまく理解してもらえるかどうかは怪しい. それに, 導入が簡単で陳腐な数学だと離散数学を批判的に捉える人たちもいる. そこで,それならそれでもいいと開き直って,教育に利用してしまうのである. 導入が簡単ならば, わざわざ時間を掛けて勉強しなくても, すぐに問題に取り掛かれるではないか. だから,数学の実践の場として利用できるのである.

 いずれにせよ,代数,幾何,解析,コンピュータを駆使して, 離散数学の枠組みの中で起こるおもしろい現象が解析できるのである. 関数の極限や確率変数を知らなくても, 解析できる数理現象はたくさんある. 離散数学を導入することで, 小さな数学が道具として活用できる実践の場が提供できるのである.

 さらに,離散数学では,構造に着目するという態度が重要になってくる. 形式的に数式を運用すれば答えが出るわけではなく, 図を描いて構造を視覚化する一方で, それを言葉で表現するというプロセスを必要とする. 後述することであるが, 構造を理解するという能力は人間が本来持っている能力の$1$つである. そして,それを言葉で表現する. これも人間固有の行為と言ってもよいだろう. そういう能力を発揮する場を設定することで, 学校数学の中でも「自己実現」,「自己表現」をキーワードとした 教育が実践できるようになる!

 もちろん,理念を訴えているだけでは, 実際の教育は行えない. 子供たちの学校生活の毎日をきちんと設計する必要がある. 私自身,大学生を相手にしていて, 彼らに離散数学を指導する術を知っている. 中学生や高校生に対して何度か講演や授業実践を行ってきたし, 教科書作りにも参画しているので, 中学校や高校の数学教育も多少の感触を得ている. また,幼児教育を専門とする先生とお話をすると, 「構造の理解」,「自己実現」,「自己表現」にぴったりの 考え方をお持ちであることがわかる. あとは小学校だけ. 私個人の中で,学校数学改造プロジェクトの全貌が完結するには, もう少々時間が掛かりそうだ….


negami@edhs.ynu.ac.jp [1998/5/1]